秋の空特有の千切れ、たなびく雲が、徐々に照らされていく。 朝。 すべてを朝日が明るみに出していく中、カーテンで遮られたその部屋は、まだ薄暗かった。フローリングの床の上には、ベッドがひとつあった。一人で眠るには広すぎるそのベッドの中に、ただ一人眠る少女がいた。 それが不意に、むくりと起きあがる。壁に掛けられた時計は正確に午前6時半を示している。彼女は目覚まし時計を必要としない。自身を世界の基準と言ってはばからないその少女は、目覚ましに時間を指示されるということを好まないためだ。 そして彼女は、大きく伸びをする。 だぶだぶのパジャマは、伸びをすることでかえって彼女の線の細さを強調する。 揺れる髪は、寝ている間に乱れないようにするためか、ゆるめの三つ編みで編まれている。薄闇の中、わずかしかない光も逃さず跳ね金に輝くそれは、自身が光を放っているかのような存在感があった。 ひとしきり伸びをした後、 「にゃーっ……」 そんな、かわいらしい声が漏れた。 彼女は口元を抑える。いつもどおり、あー、と息を吐いたと思ったつもりだったのに、変な声が出てしまった。 その音を確かめるように、頭に二つ、突起がぴこんと立つ。 「……?」 奇妙な感覚だった。 しかしそれより目を引いたのは、目の前には波打つ細長いなにか。長さは一メートル程だろうか? ふわふわの金色の毛で包まれたそれは、先端は彼女の目の前をたゆたっている。もうひとつの先端は、と視線を辿ると、彼女の背後に行き着く。どうも、自分の身体から出ているようだ。そのことは、なぜか「自覚」できる。 「……にゃに……これ……?」 口元をおさえる。「なにこれ」と言ったはずなのに、またしても妙な声が出た。 彼女は低血圧ではない。性格的には高血圧っぽいが、血圧の計測値は常に正常の範囲だ。 とにかく、彼女の頭は目覚めた時点で明晰だ。それゆえに余計にわからない。うねうねと目の前で動くそれと、頭の二つの突起の感覚。そして奇妙な自分の口調。 うねるそれを、つかんでみた。わずかな痛み。それは、手ではなくその触れた先から返ってきた感覚。握った感触と握られた痛みで目の前のものを認識する。 次の瞬間、彼女はベッドを飛び降りる。 フローリングの床を蹴り、ベッド近くの出窓へ一足飛びに向かう。足音はあまりしない。澱みのない動きは、小柄な彼女の体躯のせいもありとても軽快だった。起きたばかりとは思えない敏捷さだった。 躊躇いのない動きで、一気にカーテンを開く。降りそそぐ朝の光。今日はいい天気だ。しかしそれには目もくれず、彼女は動きを止めずそのまま反転。今度は部屋の反対側に置かれた姿見へ向かう。 一足に姿身の前へ。 そして、鏡の中にひとりの美少女が現れる。 朝日を受けて金髪が輝きを返す。いや、その美しさは、まるで自身が朝日に輝きを与えているかのような錯覚さえ抱かせる。ゆるい三つ編みに編まれ、わずかに寝乱れていても、なお美しい。 だぶだぶの、男もののYシャツを思わせるデザインのパジャマ。それが朝日に照らされ、透けて浮かび上がるシルエットは細い。控えめな胸も、ほっそりとした手足も、少女の可憐さを主張していた。 なにより印象的なのはその瞳。何者もその純粋さを奪えないような、そしてその純粋さでどこまでも見通すような瞳。その輝きは彼女の整った顔立ちをより美しく見せていた。 しかしその瞳は今、疑問の色を浮かべていた。 いつもどおり、彼女は可憐で美しい。自覚する。それは間違いない。頭の上にかわいらしく立った二つのネコミミも、おしりから伸びるしなやかなシッポも、それを犯すことなどできはしない。むしろ助長しているとさえ言える。とっても似合っている。 いや、そう言う問題ではなく。 「にゃんにゃのよ、これはーっ!?」 彼女――神無月愛奈はネコミミを立て、シッポを震わし、絶叫した。
ストレンジのーまるデイズ 外伝
あいにゃ 竜ヶ崎勇人の朝は、ある時点まで平穏だ。 「今日もいい天気で良かったの〜」 「ああ、そうだな……」 傍らを歩くひなたに、竜ヶ崎は穏やかに答えた。こうして登校するのはいつものことだ。 ひなたも隣を歩いている分には平穏だ。むしろ嬉しい。巨乳好きな彼にとって、ひなたは見ている分には大変好ましい。触れてしまうと喜びを通り越してやわらかさのあまり恐ろしくなってしまうのだが。それでも嬉しかったりする異常な心理状態は、平穏という言葉とはほど遠い。 やがて校門が見えてくる。ゆえに竜ヶ崎は自覚する。 ここが、分岐点だと。 「おはようございます、竜ヶ崎様」 「ああ、おはよう」 絶妙のタイミングで現れた黒髪のメイドに彼は挨拶を返す。 清楚なショートの黒髪、整った顔立ち。染みも汚れも埃さえもない純白のエプロンドレスに黒のワンピースは清潔の一言。いつもと同じく完璧な装いのメイドチャンピオン・名土メイだった。 ここからだ。そう、竜ヶ崎は覚悟する。 名土先輩の促す手に、いつものようにカバンを渡す。渡さなければ、「主人となるべき方のカバンをもつこともできない、ああ、なんて不実なメイドでしょう!」と身を震わせて大変なことになってしまうので、仕方ない。 彼は思わずため息を吐く。いつも、いつも、いつものこと。これから彼の、非日常的な日常が始まるのだ。 昇降口を抜け、下駄箱へ。 いつもならここで待ちかまえたように神無月がいて、「ふん、竜ヶ崎。あんたはいつもあたしの後からやってくるのね!」とか捨てぜりふを残し去り、入れ違いに聖が駆け込んでくるのだ。 そして彼の予想通り、そこには彼女がいた。 輝く金髪は豪奢にして王者の風格。しかしフラットにして華奢な身体は可憐と呼ぶに相応しい。そしてなにより、その瞳。何者もその純粋さを奪えないような、そしてその純粋さでどこまでも見通すような瞳。その輝きは、見るものを圧倒する。 今日はそれに加えて、頭の上にピンとたつ、三角に尖ったネコミミは髪と同じ金。ゆらゆらと揺れる、スカートの中から伸びるしっぽもまた金だ。それら金の装いが、彼女にいつもの王者の風格だけではなく、愛らしさを感じさせる。 似合っている。間違いなく、似合っている。ネコミミとシッポ。彼女にはぴったりだ。 だが。それは、おかしい。 「……神無月?」 「にゃによ竜ヶ崎? この”かんにゃづき あいにゃ”に……か、かんにゃ……にゃ……にゃ……」 いつものように自分の名を言おうとするが、うまく言えない。やがて、 「にゃーっ!!」 キレた。神無月は朝から何度か試みていたが、「な」はどうしても「にゃ」になってしまう。それに、語尾に「にゃ」がついてしまうことが多い。十全であるの自分が、どうにもならないもどかしさ。生まれて初めて感じるそれが彼女をいらだたせる。そして、 「神無月、おまえ、おまえ……!」 竜ヶ崎の様子に神無月愛奈はため息を吐く。彼女にとって竜ヶ崎は、ほんのちょっとだけ他とは違った存在だと思っている。だから、こんな予想通りかつ当たり前の反応をされると、いらだちを増すことになる。 しかし、 「なんでパンチラしているんだっ!?」 やはり竜ヶ崎はちょっと他とは違う存在だった。彼が見ているのはネコミミのある頭でもなく、腰にあるシッポでもく、その下にあるふとももとスカートの生み出す領域だった。 パンチラ。パンツが見えそうで見えない、あるいはチラリと見えてしまう状況を言う。余談だが、パンツが見えてしかるべき状況であるはずなのに見えない不思議を「ぱんつはいてない」と言う。いずれもチラリズムの基本にして王道である。 彼女は愚かではない。パンツには穴を開けてしっぽを通してある。そうしないとシッポを動かすたびにずれ、いずれは致命的なところまで落ちてしまうのは明白だったからだ。そしてスカートに穴を開けなかったのは、試した結果シッポを派手に動かさなければスカートがめくれてしまうことがないとわかったからだ。シッポは初体験だが、朝少し動きを確認し、そんな無様は晒さないと確信した。 しかしシッポの存在によって、どうしてもスカートは持ち上がる。もともとそれほど丈の長いスカートでもない。微妙な高さの変化が、絶妙なチラリズムを生みだしているのだ。 竜ヶ崎はネコミミでもシッポでもなく、そこを見ていた。そこだけを見ていた。慧眼である。 そこに駆け込む音が迫った。 それは下駄箱をなぞりハリセンを取り出し、紅いポニーテールを引きながら一直線に、飛ぶ。そして、 「なに言ってんのよーっ!?」 ツッコミと共に竜ヶ崎の頭で快音を弾けさせた。 着地し、紅いポニーテールを舞わせ振り向き、ハリセンを突きつけるその姿は凛としている。 柳瀬聖の登校だった。朝から見事なジャンピング・ツッコミである。 竜ヶ崎は頭を抑えながらもすぐに立ち直る。そして神無月を指さすと、 「ほら、神無月! お前が聖の最大のチャームポイント、パンチラをするから聖もこんなに怒って……」 「にゃーっ!」 神無月は聖から素早くハリセンを奪うと、竜ヶ崎に叩きつけた。 ――こうして。 いつものように、しかしいつもとは少し違う一日は始まったのだった。 ・ ・ ・ 二時間目の休み時間。昼休みの次に長い休み時間。神無月は一人、屋上へ向かう。 歩む足に躊躇いはなく、歩む姿には物怖じというものがない。ネコミミを立てシッポを揺らし、しかしそれを隠すことなく臆することなく進む姿は、威風堂々の一言だった。 彼女が辿り着いたのは屋上。そこで、神無月は懐に手を入れ、そこから取り出したものを空に放り投げる。 すると、空に一つの音が響く。 シャン それは涼やかな鈴の音。それは空中で神無月の放ったそれを受け取り、音もなく着地する。着地の姿勢は跪き頭を垂れた礼。 「お呼びに答え、参上仕りましたですです」 降り立ったのはメイド。 白のエプロンドレス、やや丈の短めな黒のワンピースは普通のメイドと言えるだろう。 しかし、彼女の特徴はそれにとどまらない。 茶の髪はツインテールに結ばれた髪の先には、拳大の銀の鈴。たゆたうしっぽの先にもまた銀の鈴をつけている。それだけではなく、頭の上にはふたつのネコミミ、ひとつの触覚のようなくせっ毛があるというにぎわいようだ。 彼女は、神無月愛奈と契約を結んだ学生メイド・支倉新実――通称ニィ、である。 「愛奈様、この呼び出し方はやめませんですですか……?」 そう呟くニィの口には、先ほど神無月が放り投げたもの――にぼしがくわえられている。 神無月はにぼしを放り投げることでニィを呼び出す。主人の呼び出すタイミングを知り、確実に待機するのはSランクのメイドであるニィにとっては当たり前にこなせることである。にぼしを空中でキャッチするのはニィの卓越した運動能力ならではだ。 その意味では彼女に相応しい呼び方と言える。が、同時に、なんていうかこう、人間の尊厳みたいなものを踏みにじられるような呼び方とも言えた。 ニィの不満に、神無月は堂々と答える。 「だまりにゃさい。それを受け取れにゃいほどに鈍ったのにゃら、あたしのメイドをやめてもらうにゃっ」 言って、口元を抑える。やはり「な」は「にゃ」になるし、語尾にもまた「にゃ」が入りがちだ。 主人のおかしな様子に目を上げるニィに見えるのは黄金色に輝く髪に、同じ色で輝くネコミミ。そして、ゆらゆらと揺らめくシッポもまた、鮮やかな金。ニィの茶のネコミミとシッポもかわいらしいが、神無月のそれともまた違う美しさだった。 にぼしをごくりと飲み込み、ニィは自らの主人の威容に嘆息する。 「今日はいつも以上に素敵なお姿ですです」 「いつも言ってるでしょう? あたしは賛辞にゃんて聞き飽きてる。そんにゃことを聞きにあんたを呼んだんじゃにゃい。あんたを呼び出したのは、これがにゃにか、ということ聞きたかったからにゃ」 ただでさえ目を引く彼女である。別に今さらネコミミにしっぽがくわわった程度で変わるものではない。そう、神無月愛奈はそう考えている――が、実際にはそのことによってメロメロになってしまっている男子生徒の数が増えたりしているのだが、それもまた彼女にはどうでもいいことではある。 そう、彼女はこの事態を大したこととは考えていない。この程度のことで、自分の生活を乱されるのをよしとしない。 だから普通に登校したし、こうしてこの二時間目の後の休み時間まで、すなわち学校生活を乱さずニィとまとまった話ができる時間まで待った。 ニィは今の自分と同じ、ネコミミとしっぽを常備している。ひょっとしたら同じ原因かも知れないし、そうでなくとも手がかりは掴めるかも知れない。もっとも別に、神無月はニィに頼るつもりはない。もし原因が分からなければ自分で調べるつもりだ。だが、それすらわずらわしい。 そう思う神無月の問いに、 「それはきっと、『乙女妄想爆走病』ですですね」 ニィはあっさりと答えた。耳慣れない言葉、と言うよりはあまりにまともとは思えない名称に、神無月は形の良い眉をひそめる。 「にゃによ、それは?」 「乙女とは夢みる女の子のことですです。夢みる女の子の妄想は、ときとして現実と妄想の境を曖昧にしてしまうことがあるですです。この町の女の子は誰でも一度、妄想を暴走させ境を突き抜け、ついには妄想は爆走し具現化してしまうですです。それが『乙女妄想爆走病』ですです」 「にゃによ、じゃあ例えば聖もかかったっていうの?」 「伝え聞くところによると、聖様は一週間ウエディングドレス姿だったそうですです」 神無月は紅い髪に白いウエディングドレスを身に纏う聖を想像する。手に持つハリセンは白であるため、色の取り合わせとしてはなんだかイメージしやすかった。 だが、と神無月はそのバカげた考えを振り払う。 「ニィ……あんたはメイドの分際で、主人たるこのあたし、”かんにゃづきあいにゃ”を愚弄するつもり?」 ネコミミを立て、シッポを天に向けて立つ神無月愛奈は、いつも以上の迫力だった。真っ直ぐすぎる瞳の圧力に、さすがのメイド学科最強のメイドも一歩引く。 しかし、踏みとどまり、 「……ニィは、メイド学科Sランクのメイドですです。ご主人様に対して不実を働くことはありえないですです……!」 真っ直ぐに、言う。 その態度に、神無月愛奈はニィの言葉がウソでないことを理解する。彼女の最も信頼するのは自分の能力だ。その能力で見いだしたメイドが、自分の真っ向からの視線を受けてウソでないというのなら、それは間違いなく真実なのだろう。 「わかった、信じるにゃ……」 考えてみれば、この学校では尋常でないことが通常にあることとして日常が営まれている。地域特有の状態なのだから、そうした変な病気が地域特有であるのもそんなに驚くほどのことでもないのかも知れない。加えて言えば彼女自身もあまり尋常な存在ではない。 ただ、むかつくのは、 「そんにゃくだらにゃいことに、この”かんにゃづきあいにゃ”がふりまわされてしまうことにゃ」 今もこうして「な」が「にゃ」に変換されてしまうのが煩わしい。なにより自分自身の名前がまともに呼べないのがむかつく。 「大丈夫ですです。”乙女妄想爆走病”はそんなに長続きしないですです。女の子は夢を見ますが基本的には現実的ですです。あまりにも暴走する妄想は、現実離れしすぎて長続きしないですです。個人差はありますが、三日もすれば元通りになると思いますですです」 「三日はにゃがいわね……薬とかはにゃいの?」 「乙女の妄想に効く薬なんて、聞いたことがありませんですです」 なにか妙に納得いくような、でも奇妙に納得いかないような答だった。 目の前で揺れるもう一本の茶色いシッポ、ニィのシッポを見ながら、神無月はもう一つの疑問をぶつける。 「そういえばあんたのネコミミとシッポも乙女妄想爆走病のせいかにゃ?」 「愛奈様、お戯れを。ニィは生まれついての猫娘ですです」 なぜか誇らしげにニィは言った。神無月はため息を、ひとつ吐く。そうだった。ニィは違う。神無月はご主人様としてちゃんと知らされていたのだ、ニィがどういう存在であるかを。 どうも猫娘になってから調子が狂っている。そうだ、そもそもそれがおかしい。 「それにしても、にゃんであたしが猫娘ににゃるのよ?」 「愛奈様もネコミミに憧れていたとは意外ですです。ニィのことを見てくれて、それでネコミミを良いものだとわかってくれて、妄想を爆走させてくださったんですですね。……なんだか、照れ臭いですです」 嬉しそうにシッポを揺らすニィ。あわせてシャンシャンとなる鈴の音がいっそう楽しげな空気を作る。 しかし、神無月は冷ややかに、 「……あんた、そういうギャグを言うときは聖がいるときにしたほうがいいにゃ。あたし面倒くさいから突っ込んであげにゃいわよ」 「あ、愛奈様〜」 一転して落ち込むニィを神無月は無視。 確かに身近に猫娘がいる。しかし、神無月はそれが自分の今の状態に繋がらないと感じていた。 ニィのネコミミは「感覚器として優れている」、シッポは「運動性能を上げている」という印象しかなかった。見た目はそれほど気にしていない。契約時に神無月がもっとも重視したのは名土メイを凌駕しうる、何かに特化した性能だ。見た目は一定水準以上でありさえすればよかったのだ。まあ、面白いとは思っていたが。 神無月愛奈はニィに対して身体能力も外見も勝っている。だから、少なくとも「ニィに憧れる」なんてことはなく、それゆえに猫娘になる妄想を爆走させた理由が思い当たらない。 (……いえ、本当にそうだったかしら……?) なにかひっかかるものを覚えた。形のないもやもやを感じる。しかし全てに対して明晰な彼女にしては珍しく、その原因は判然としない。最近こうしたことが多い。それは、主に竜ヶ崎がらみのことが多かったりするのだが。 (まあいいわ……!) 原因の追及はとりあえずうち切ることにした。わからなくて、いらつくだけだ。 とにかく状況は分かった。当面問題となるのは、 「……で、この”にゃ”はどうにかにゃらないのかにゃ?」 「それを克服するには修行が必要ですです。ニィも、昔はどうしても”ですにゃ”と言ってしまっていましたですです。でも、努力して工夫してがんばって、”にゃ”を”です”でうち消すことでどうにか克服したですです!」 そのときの苦労を思い出したのか、ニィの目はわずかに潤んでいる。 「あんた、それで猫娘としての重要なポイントをうしにゃったのね……」 「な、なにを言うですですかーっ!?」 ・ ・ ・ とにかく原因は分かった。が、とりあえず待つ以外に対処のしようがない。 しかし、繰り返すが神無月愛奈は今の状況を対したことがないと考えている。「な」が言えないのはうっとおしいが、まあそれはそれで大したことじゃない。 竜ヶ崎が見いだしたパンチラは意外ではあったが、まあそれもしっぽの動きに気をつければいいことだ。竜ヶ崎がそれでもこだわるようならまた突っ込んでやればいい。こんどは、より強く。懲りるまで、徹底的に。 この状況は、彼女にとってその程度のことだ。そんなものがこの神無月愛奈を揺るがすことなどありえない。彼女はそう考えている。 そんなことを思ううちに昼休みを告げるチャイムが鳴り、彼女は教室の外へとでる。 向かう先はとりあえず学食だ。いつもニィに言いつけて、席は確保している。竜ヶ崎が食堂に来れば「相席にさせてやる」ことはあるし、来なかったら来なかったで暇つぶしにちょっかいをかけに行ったりすることもある。 猫娘になったからと言ってそれを変えることはないだろう。 いつもと変わらない……そう思う神無月愛奈の前に、いつもと違う状況があった。 「竜ヶ崎……?」 そこにいたのは竜ヶ崎勇人だった。なぜか背後に両手を隠している彼は、神無月の方をじっと見ている。 竜ヶ崎が神無月をわざわざ待ち受けるなんていう状況は、今までなかった。 「……にゃんの用にゃの、竜ヶ崎?」 「神無月……俺は試してみたいことがあるんだ……」 「へえ、そうにゃの……?」 ピコン、とネコミミを立て神無月が注目するのは、竜ヶ崎が未だ背後に隠している両手だ。なにか持ってきたのだろう。猫娘となった自分に関連する、何かを。 だが、ふん、一つ息を吐き、神無月愛奈はいつものように優雅に金髪を手で跳ね、傲然と”ない胸”をはる。 たとえ何があろうと何が起ころうと、はね除ける自信が彼女にはあった。なぜなら彼女は、神無月愛奈なのである。 だから、竜ヶ崎の動きなどお見通し。両手を前に差し出すさまなど止まって見える。その手に持つモノも確実に捉えていた。だがそれ故に……それに囚われた。 「お前がどの程度、猫娘かって確かめたいんだ!」 その声をネコミミは確実に聞いてはいたが、しかし理性には届かない。 なぜなら 「にゃ〜ん」 神無月愛奈の理性は半ば以上飛んでいたからだ。 竜ヶ崎が取り出したものはなんてことはない、。ただの猫じゃらしだ。ペットショップで売られているプラスチック製のカラフルなものだ。午前中の休み時間、ネコ好きのクラスメイトが持っていたものを借りておいたのだ。 竜ヶ崎としては、「神無月愛奈がネコミミ」という面白い状況でなにかをしたかっただけだ。せいぜい目の前に出して、神無月にバカにされるだけだと思っていた。もちろんそのあとでバカにしかえす言葉をいろいろ考えていたわけだが、その予想は完全無欠に外れてしまっていた。 神無月は本当に楽しそうだった。 猫じゃらしの動きにいちいち細かく反応し、そのたびに舞う鮮やかな金髪は綺麗で、その中に立つネコミミがかわいらしい。手にしても指を畳み手首を折り曲げたネコの手だ。猫じゃらしをとらえようと繰り出されるが、いつもの超威力の打撃ではなく、じゃれるネコそのものの愛らしさだ。揺れるたびにしなかやかに舞うシッポもまた愛らしく、それがまた絶妙なパンチラを生みだしている。そうだ、竜ヶ崎はパンチラもまた好きだが、それだけではなくふともももまた大好きなのである。 しかし何より竜ヶ崎を引きつけるのはその表情だ。 彼の知る、優等生だった頃の凛とした顔とは違う。もちろん、現在いつも見せている、自信に満ちた傲岸不遜な顔とだって違う。 それは、子供のように無邪気で無垢で、なにより楽しく幸せそうな顔だった。 そして、時折漏れる 「にゃーん」 という声もまた、それを加速させていた。本当にかわいい。どのくらいかわいいかと言えば、普段とのあまりのギャップに聖がツッコミもせずあきれて立ち去ったほどだ。ちなみにひなたはいつものように傍観者ポジションで幸せそうな笑顔を浮かべ眺めている。 あたりにも徐々に人だかりが増えていった。 神無月に対する印象は彼女を知る度合いによって決まる。あまり知らない者は、その美しさに惹かれる。よく知る者は、その脅威にひく。いずれにせよ、ただでさえ目立つ彼女のかつてない有様が注目を浴びるのは必然と言えた。 そんな中、、竜ヶ崎の心中は複雑だった。 ある意味で期待通りだ。神無月をからかう、なんていうおよそ普段ではありえないことが実現している。それにかわいい神無月というのはこれはこれですごくいい。その点を、竜ヶ崎は素直に認めている。 しかし、同時に幻滅に近いものも感じている。かつて目指した究極の優等生。そして今や至高の問題児。いずれも届かないと感じたものだった。それが、自分の手の内で想う様に踊ってしまっている。そんなバカな。 そんな葛藤が、手の動きを鈍らせた。結果、神無月は理性を取り戻す。 「ちょ、あたし、にゃにしてるのよっ!?」 自分の恥ずかしい状況を理解して神無月が叫ぶ。 しかしそれでも揺れる猫じゃらしから目を逸らすことが出来ない。 「おのれ竜ヶ崎っ! こ、このあたし、”かんにゃづきあいにゃ”をもてあそぶとはっ……!」 目は怒りを刻むが、それでも猫じゃらしから視線は外さない。猫じゃらしに揺れる怒りの瞳は真っ向から睨まれるのとはまたひと味違う脅威を覚えさせる。 慌てて竜ヶ崎は猫じゃらしの動きを再開させた。 神無月はどうしようもなく猫じゃらしの動きを追ってしまう。 「にゃ、にゃあっ!」 苦しげに叫ぶ神無月。 そこに、 「神無月様! 無理に逆らってもダメですです! ここは流れに身を任せるですですっ!」 いつのまにやら現れたニィが絶妙のタイミングで助言する。 流れに、身を任せる……? 逆らおうとせず、無心に猫じゃらしの動きを追う。右にピコピコ、左にピコピコ。 バカみたいに単純な動きを、バカみたいに追いかける。 心底楽しかった。 (だめじゃないっ……!) 事態はまったく改善しなかった。いや、自分から楽しんでいる分、苦しみは少ないのだが。神無月はそんな情けない自分に、屈辱と焦りを感じる。 しかし、焦りを感じるのは竜ヶ崎も同様だ。 (動きをとめたらやられる……?) 今までのんきに猫じゃらしを振っていたが、神無月の怒りは本物だった。猫じゃらしを止めたら、確実にやられる……! 状況は膠着したかのように思えた。 しかし、それは見た目だけだ。神無月愛奈の内面は先ほどとは異なる。 自分から流れに身を任せることで、わずかなら理性を残していたのだ。しかし、猫じゃらしの動きから逃れられないことには変わりない。 (……この神無月愛奈でも抵抗できないとは、ネコの習性ってこんなに強固なものだなんて……!) それは羞恥であり屈辱だった。しかし楽しいのも事実だ。それらがない交ぜになって、なんだかむずがゆい感じがする。頬が熱くなる。猫じゃらしをあやつる竜ヶ崎も焦りつつもそれなりに楽しげであり、なんだか悪くない気すらしてくる。 (……あたしよあたし、あたしなの! このあたし、神無月愛奈が、そんなことでどうするのよっ!?) 心の中で叫ぶ。 本来、神無月愛奈は自分で流れを生み出せる人間だ。それが流れにのせられているなんてたまらなかった。 流れからどうしても外れることは出来ない。しかし、だったらそれはそれでできることがある。 (流れから外れられないのなら……) 彼女は、動きを加速させる。 (流れを追い越してしまえばいい……!) 加速した神無月のネコ手は、ついに猫じゃらしを捉えた。そしてその速度と威力は、柔軟で簡単には壊れないはずの猫じゃらしを粉砕する。 そのとき、時が止まった。 止まった時の中、竜ヶ崎の頬から汗が一筋流れる。 神無月愛奈の楽しげな顔が、不敵な笑みへと変貌する。 先に動いたのは神無月だった。 竜ヶ崎をかすめた轟音。とてつもない破壊力を伴った、荒ぶる風だ。 竜ヶ崎はただ、ちからなく腰を落とし、尻餅をつく。 見上げた先には、拳を振り抜いた神無月がいた。 一筋だった汗が、ぶわっと増える。全てが脂汗だ。 「あの、神無月……」 「あたし、いっぱい殴ることにするにゃ……」 汗が止まらない。 「でも安心して竜ヶ崎……絶対、絶対、絶対に! 当てないにゃ……」 汗だけじゃなく、怖気が体を冷却し、震えが走る。 「でも、あんたはもうしばらくしたら、こう言うと思うにゃ……」 竜ヶ崎は震える体にむち打ち、立ち上がろうとする。だが思うようにならない。もどかしい。 「いっそ当てて下さいってね! だから死ぬ気でにげるにゃーっ!!」 弾かれたように竜ヶ崎は立ち上がった。そして全力で走り出す。 それを見て、神無月は笑みを浮かべる。不敵で、心底うれしそうな笑み。 「いくにゃー!」 走り出す。 しなやかな足の運びはまさに、ネコそのものだった。 戯れに獲物を追い、真剣に獲物をいたぶる。 「それでこそ猫娘ですです、愛奈様……!」 ネコミミツインテールメイド・ニィは、主人の勇姿に静かなエールを送った。 そして。 校舎を巡る追いかけっこが始まった。 ・ ・ ・ 神無月愛奈は今度こそ、心底楽しかった。 ネコミミが風を切る感覚が爽快だ。それだけでなくネコミミは、いつも以上に立体的に幅広く音を捉え、それがよりいっそう竜ヶ崎の存在を認識できる。それが、動きの先の先まで読めると言う感覚を与える。逃さないという確信。それが、心地よい。 邪魔になるかと思われたシッポも、急激な方向転換にはブレーキになるし、直線を移動するときには飛行機の尾翼のように安定を増すことに役立たせることができる。そして、シッポにより変化する重心も、うまく使えばさまざまな動きに活用できる。 短い間に、神無月は猫娘としての動き方を習得していた。 (なるほど、ニィはいつもこういう感覚で動いてるのね……!) 笑顔が輝いている。その輝きに染まるように、金髪は鮮やかに翻る。しなやかな動きも。ムダのない攻めも。なにもかもが、まさにネズミを追うネコそのものだった。 竜ヶ崎勇人は心底脅えていた。 なんかちょっとした間違いで当たりかねない至近距離で、直撃したらそのことを理解できないまま天国に逝ってしまいかねない打撃が繰り返されているのだ。 なにより。かつて竜ヶ崎は、ニィに追いかけられ、もてあそばれたことがある。その時の恐怖は身体に刻まれていて、今まさにそれが甦っていた。だから掛け値無しに全力の疾走だった。 死ぬかも、しれない。 理性はそんなことはないと叫んでいる。本能はそんなことになりかねないと脅えている。 だから竜ヶ崎は全力で走る。 だから神無月は楽しくててたまらない。 時に近寄り打撃をかすめる。 隣をぴったりと音もなく走り、それに気がつかない竜ヶ崎の間抜けな顔を眺めてみたりする。やがて気づき、驚く彼の顔を見るのもまた楽しい。 背中に飛びついてみたりもする。ぎゅっと抱きしめて、おびえる竜ヶ崎の震えを堪能してみたりもする。 高く飛び、天井をけり前に着地。おどろく竜ヶ崎にぎりぎりで打撃をかすめる。あわてて逆方向に逃げる竜ヶ崎の頬を、戯れにしっぽで撫でてみたりする。 いくつもの打撃をかすめさせ、幾度もフェイントを織り交ぜ、驚かせ、慌てさせ、楽しむ。 あまりに楽しくて、 「にゃはははっ!」 神無月は声をあげて笑う。もう「にゃ」と言ってしまうことも気にならない。 あまりに恐ろしくて、 「あははははっ!」 竜ヶ崎はやけくそ気味に笑い返す。たしかに怖い。恐ろしい。でも、それなのに腹のそこから「楽しい」という思いが湧きあがってくる。だから笑う。もうなんだか、笑うしかない。 そんなたのしいたのしいおいかけっこもやがて終わる。 行き着いた先は屋上。なにかとここへ来てしまうのは、もはや竜ヶ崎の習性と言えるかもしれなかった。 細長い雲の並ぶ、秋らしい空。開放感に溢れる屋上は、しかしおいかけっこにおいては行き止まりでしかない。 扉を抜けたところで、竜ヶ崎は足がもつれさせた。もう限界だった。倒れ込み、でもどうにか起きあがろうとする。 そこに、 「にゃーっ!!」 神無月が飛びかかる。 そのままのしかかる。仰向けの竜ヶ崎に馬乗りの状態だ。神無月の体重は軽いが、竜ヶ崎にはもはやはね除ける力はない。たとえ疲労がなかったとしても、体重はともかく力の差は歴然だ。 ついに獲物はネコに捉えられてしまったのだ。 神無月は非常に満足していた。 とても楽しかった。最後にはこうして捕まえた。言うことはない。 そして、思い出した。 それはあの日、竜ヶ崎を半殺しにするように命じた日。そのあとのニィの報告。名土先輩に警告を受けニィはひどく落ち込んでいたが、それでも言ったものだった。 竜ヶ崎を追い回すのは楽しかった、と。 それを聞き、神無月は思った。 ――そう、あたしは一度は竜ヶ崎を追い回してみたいって思った。 あいつはこのあたしに追いつこうと、前の学校ではずっとあたしを追いかけていた。けっこうがんばっていたものの、まず追いつかれることはないと思っていたし、近づかれるのは不快ではなかったけど。でも、いつも気になった。完全無欠のこのあたし、神無月愛奈は常に頂点にある。だから、何かを追いかけることなんてなかった。 だから竜ヶ崎がどんな気持ちなのか。少し。ほんの少しだけ気になっていた。 あたしがほんのちょっとだけとは言え気をかけるなんてことは大変なことなのだ。それなのにあのバカは勝手に追うことをやめて勝手なことを言いだして……だから、ニィの話を聞いたとき思ったのだ。あたしが逆に竜ヶ崎を追いかけ回したら、あいつはどんな顔をするのだろう? あいつと同じ気持ちになるのだろうか。そして、それはどんなにか楽しいだろうかって。 それが、これか。 そうだ、猫なら獲物をおいまわしたって不思議ではない。なにしろニィって前例があるんだから、まったくおかしくない。 バカみたい、バカみたい。バカみたい。本当にバカみたいで、あんまりにもバカすぎて……だから、すごく楽しかった。 まったく、なにが「乙女妄想爆走病」よ。全然乙女らしくなくって、妄想ですらないバカバカしいだけの……でも、爆走だけはあってるわね。 神無月はなんだかおかしくなって、こらえきれず身を震わせて笑い出す。 その身体の下、竜ヶ崎は呆然としていた。わけがわからない。自分を散々怖がらせたあげく、ついにつかまえた神無月がしたことが自分をしげしげと見つめて笑うだけなのだ。 しかし何より彼をぼう、とさせるのは、神無月の姿だった。 なにもかもが輝いている。 直上からの太陽を受け、神無月の長く滑らかな金髪は光を透かし輝いて、まるで光を背負っているようだった。その中で笑いに震える動きにあわせてネコミミをピコピコさせるのがかわいらしい。気まぐれに揺れるシッポもまた、かわいかった。身体を傾けてるのにまったく形を変えない胸もまた、いつもの物足りなさではなくかわいらしさを加速させているように思えた。 今の神無月は無邪気で無垢で、とてもかわいい猫娘だった。 馬乗りになられているが、思ったほど重くない。むしろその軽さは、神無月の女の子らしい華奢さをより強く感じさせた。 それより、この密着状態だ。 パンチラは目で堪能するモノだ。しかしこの状況はどうか。パンツは当然見えない。しかしおそらく、身体に直に触れていて、触れている箇所の柔らかさはあまり意識するとひどくやばいように思えた。 神無月は面白そうに竜ヶ崎の様子を眺め、竜ヶ崎はぼうっと、神無月を見る。 お互いにお互いを見ている。 だから。 やがて、その目と目があうのは必然だった。 目と目があって、そして離れなかった。 神無月は思う。 こんなに近くからじっくり竜ヶ崎を見るのは初めてかも知れない。なんだか面白くて、ずっとじっと見つめていたくなる。バカなクセに、強い光をたたえた瞳。見てると楽しくて、なんだかむずがゆく感じて、だから目が離せない。なんだか胸がドキドキしてきた。 竜ヶ崎は思う。 かつて憧れていた、何者もその純粋さを奪えないような、そしてその純粋さでどこまでも見通すような瞳。それが今、自分だけを見ている。そのことをどう考えていいのかわからない。さっきまで恐怖と疲労で悲鳴を上げていた心臓が、今度はドキドキとまたやかましくなってくる。このまま壊れてしまうんじゃないか、なんて思う。 二人は見つめ合い、そしてお互いに胸を高鳴らせ、それが止まらない。 身体が熱い。そう言えば、「乙女妄想爆走病」は、一応のところ病気だと言うことだった。だから熱に浮かされることもあるのかもしれない。 だから。 だから、こんな気持ちになっても不思議ではないのかも知れない。神無月は熱に、ドキドキに満たされる思考のなか、そんなことを思う。 二人の目と目の距離。それが近づいてゆく。ゆっくり、ゆっくりと。神無月の身体が、竜ヶ崎の身体へと倒れ込んでゆく。 「神無月……?」 竜ヶ崎の声がよく聞こえない。胸の高鳴りがあんまり大きくて、他の音なんていらないように思えた。 すこしずつ、でも止まらずに。近づいていく。近づくにつれて、熱に浮かされたような、でも心地よい熱さが高まっていく。 そして、神無月は。 すべてがドキドキに満たされて。 とろけそうな熱に身体中を熱くさせて。 意識がゆるやかにおだやかに、幸せに。竜ヶ崎へと落ちていくのを感じた。 ・ ・ ・ そして、目が覚めた。 神無月愛奈は、自分のベッドから身を起こす。 頭に手をやれば予想した突起の感触はなく、おしりに手をあてても伸びる細長いモノはない。 跳ね起き、カーテンを素早く開ける。 光が部屋を満たすのさら待ちきれないという素早さで、神無月は姿見の前に立つ。 いつも通りの輝く金髪。華奢でフラットな少女らしい身体。そこには、先ほど確認したとおり。ネコミミもシッポもなかった。 暗がりの中、目を凝らす。壁に掛かる時計の示すのは、正確に午前6時半。いつもの起床時間だ。 状況は理解した。だから。 拳を握り、全身を震わし、天井を見上げ、 「夢オチーッ!?」 叫んだ。全力で叫んだ。 「あたしよあたし、あたしなのよ! この神無月愛奈がっ! ゆ・め・オ・チ、ですってっ!?」 とまらない。たまらない。おさえられない。 「ふざけんじゃないわよーっ!!」 もはや絶叫だった。よく通る声は、その威でもって窓ガラスを震わす。目の前の姿見などそのまま割れてしまいそうだった。 叫ぶだけ叫んで、神無月は荒く息をつく。 そして、見ていた夢を思い出す。夢は目が覚めるとあっと言う間に失われてしまうものだが、克明に覚えていた。 くやしかったこと。 たのしかったこと。 ドキドキ、したこと。 (……最後、あたしはなにをしようとしたんだろう……) 思い出すと、あの時のように胸の動悸が高まる。 まったくバカバカしかった。あの夢にまだ気持ちが引きずられているらしい。まったく夢らしい。現実にありえないことばかりだった。 「あ、愛奈様。熱は下がったようですですね」 唐突に声をかけられ、神無月愛奈は反射的に動いた。 すなわち、拳。 それを、とてつもない重さと速度で繰り出す。 容赦ない打撃は、その衝撃波だけで絶叫に耐えた姿見を粉砕した。 「そ、その分だと大丈夫なようですですね……」 引きつった声をあげるのは、彼女のメイド、ニィだった。 彼女ははいつくばっていた。メイドにあるまじき無様な姿ではあったが、ここはむしろあの打撃をかわしたことを誉めるべきだろう。 つかの間見せた神無月愛奈の実力に、ニィは冷や汗をかいていた。辛うじてかわせた。メイド学科最強メイドでなければ直撃は避けられなかっただろう。かわせなければどうなるか……それは、かすめただけでコナゴナにされた姿見を見るまでもなくわかることだろう。 「……ニィ、なんであたしのマンションにいるのよ?」 鋭く問いかける神無月。 ニィはあわてて立ち上がる。やや足下がややふらつくのは先ほどの衝撃波の影響だ。しかし、すぐに姿勢を正すとニィは答えた。 「は、はい。神無月様を看病していましたですです」 「……病気になった覚えはないわよ」 夢の中では妙な病気にかかりはしたが、あくまで夢は夢。そして、神無月にはここ最近病気になった記憶はなかった。 「あ、そうですですか。『乙女妄想爆走病』は人によっては記憶に残らないと言いますし……愛奈様おぼえてないですですか」 「……なんですって……?」 なにか、おかしい。神無月は胸の動悸が高まるのを感じた。理解できない不規則な高鳴り。それは完璧である彼女が滅多に感じることのない感覚。不安によるものだと、彼女はいまいち理解できない。 「はいですです。『乙女妄想爆走病』というのは……」 「そのことはいいわ。それより、あたしはどこで病気で倒れたって言うの?」 「? は、はいですです。屋上で熱を出して倒れられたそうで、竜ヶ崎様が保健室まで運んでくれたですです」 「そう……それはこのあたしとしたことが、醜態を晒したものだわ」 「……愛奈様? お顔が赤いですです」 言われ、神無月は慌てて頬を押さえる。 「……そうね、まだ熱があるみたいだわ。あたしはもう少し休むことにする。ニィ、身の回りの世話を命じるわ。あたしを失望させないよう、あたしのメイドらしく全力で働きなさい」 「はいですです!」 パタパタと、主に仕える喜びに目を輝かせながらニィは歩き出す。向かう先は台所。おそらく、なにか食事でも作るのだろう。 神無月は再びベッドに戻り、潜り込む。 「このあたしとしたことが、変な夢を見たものだわ……きっと夢。全部夢。熱に浮かされて、変な夢を見ただけなのよ……あんなこと、ありえないもの……」 ぶつぶつと呟く。立ち向かわず、ただ文句を言う。そんな今の有様こそありえないことに、彼女は気づかない。 「やっぱり、夢オチよ……」 そう文句を言いながら、しかし彼女は気づかない。彼女の口元は幸せそうに綻んでいた。 そんな、幸せな。秋の日の朝だった 了 |
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