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ストレンジのーまるデイズ

第十五話 拠り所



 夜に、変わる。
 廊下の主役は陽の朱から、夜の黒、そして月の冴え冴えと儚い白へと移ろう。まだ蒸し暑い夏の空気を、月光が冷たく支配する。
 その中で超然と佇む者が一人。その姿には陽光より月光が相応しい。
 深い黒のワンピース、白のエプロンドレス。由緒正しい正統派のメイド服。それを完璧に着こなすのは、メイド学科最強、「メイドチャンピオン」の称号を持つメイド。
 俺のことを立ち直らせてくれて、しかし俺が拒絶してしまった人。今日一日探し求め、ようやく出会えた人。
 ――名土先輩が、いた。

「竜ヶ崎……?」

 腕の中の聖が力無く呟く。
 しかし、聖の方を見る余裕はない。
 この場にこのタイミングで現れる何てありえないと思ったから驚いてしまったせいもある。
 しかし何より俺を止めてしまったのは、違和感。いつもの先輩とは何かが違う……その感覚に戸惑ってしまったからだ。
 ただ、何も言えず呆然と見つめる先、名土先輩はゆっくりと廊下を歩み出す。
 向かう先は床を埋めるハリセンの残骸の中に倒れ伏すネコミミツインテールメイド、ニィの方だ。
 名土先輩はニィの傍らに立ち止まると、

「ニィ」

 ただ短く呼びかけた。
 感情のこもらない声。ただ静かに、静かに。しかし絶対的な響きを伴って、その声はニィを打つ。
 反応して、ぴくりとニィの身体が震える。だがうつぶせに床に着く身体はそれ以上動かない。動けない。

「……ニィ」

 再び名土先輩の呼びかけ。その声にようやく、ニィは頭だけを動かす。その動きに伴いゴロゴロとツインテールの先端の飾りが動く。

「な……名土先輩……?」

 苦しい息の中、起きあがることも出来ないニィ。
 そんなニィを名土先輩はただ見下ろす。手を差しのべもしない。しゃがんで近づこうとすらしない。
 暗がりの中、それでもどうにか見える名土先輩にの顔にはいたわりの表情はなかった。いつものメイドの微笑みもない。それ以前に表情と呼べるものがない。
 ただ、見下ろしている。
 それだけなのに重苦しい。見ているだけで潰れてしまうのではないかと思えるほどの重圧感があった。

「どうして……ここにいるですですか……?」
「そうですね。あなたにとっては不思議かも知れません。急に降って湧いたような下級生からの質問責め。予定になかった模範演技の要望。突然の教諭からの相談。そんなにたくさんの事があったら、まだ捕まってしまっているでしょうね」

 ニィは答えない。
 その沈黙の気まずさに、俺は何となくわかってしまった。
 もしニィが俺を襲うなら、俺のメイドとなろうとしている――今でもそうなのかはわからないが――名土先輩がそれを阻んでしまうかも知れない。
 だからきっと、ニィも身を置く”名土先輩ファンクラブ”。その仲間が、名土先輩を足止めしたのだ。

「あなたは、私を誰だと思っているのですか? 私はメイドチャンピオン……メイド学科最高の称号を持つメイドです。そんな足止めに時間をとられると思いますか?」

 名土先輩はただただ淡々と語る。そこにや揶揄する響きもなければ怒りだって感じられない。抑揚がないわけではない。声が低いわけでもない。いつもと同じ声音。それなのに感情だけが感じられない。いつもの暖かみがまるでない。
 なにも不足していないはずなのに、大事なものが欠けている――。

「……竜ヶ崎様を傷つけましたね……?」

 凍えた。
 やはり同じ調子で語られた筈のその言葉に、感情がないはずの声に、なぜだかとてつもない冷たさを感じた。
 その言葉の冷たさに抗うように、ニィは跳ね起きる。でもダメージが残っているのか、起きあがったのは辛うじて上半身のみ。腰から下は力が入らないのか倒れたまま、腕だけで必死に起きあがる。
 しかし届かない。いや、例え立ち上がれたとしても届かないだろう。あんなに近くにいるのに、そして確実に近づいたはずなのにまだ遠い。そんな絶望的な距離を前に、ニィは抗うように叫ぶ。

「ニィは、ご主人様の……神無月様の命に従っただけですですっ! それはメイド学科の生徒として正しいですですっ! 名土先輩であろうとも非難することはできないはずですですっ!」

 それは、あるいは見苦しい姿だったのかも知れない。
 でもこのとき俺はそうは思えなかった。
 ただニィは必死だったのだ。
 ニィは名土先輩のファンクラブに属していると言った。それほどに名土先輩の事が好きなのだ。そんな人に感情のない言葉をかけられる――そんな苦しみ、そうはないだろう。
 だから必死なのだ。こうまで必死なのだ。それを誰が笑うことができるだろうか。
 その言葉を。

「そうですね」

 やはりひどく静かに、淡々と。名土先輩はなんでもないことのように肯定する。

「あなたはご主人様のご命令通りに行動しました。メイドとして、あなたは正しい。メイド学科の学生としてあなたを罰する理由はありません。メイドチャンピオンとして、なにもあなたを罰する理由はありません」

 その言葉にホッ、と一息吐くニィ。
 その行為がひどく間違っているように思えた。そうしちゃいけない。安心なんかしてはいけない。絶対にまずい。そんな理由のない不安、焦燥が湧きあがる。
 名土先輩は話し続ける。

「何もできません。ですからわたしは――」

 ただ、ただ、ただ。
 変わらぬ声の調子。本当に何も変わらない。それなのに。

「あなたには何もしないことにします」

 その一言に――心臓が止まるかと思った。
 それはなんでもない一言。そのはずなのに。どうしようもなく身体が震えた。

「メイドとしての義務以外で、あなたに触れません」

 姿勢一つ変えることなく、

「声をかけません」

 抑揚一つ乱すことなく、

「笑いかけません」

 表情一つ変えることなく、

「目を向けません」

 瞬き一つすることなく、

「あなたが私について喜ぶことの全て。それを、与えないことにします」

 そう、告げた。
 無視ではない。害することもしない。しかし与えない。ただ、幸せだけを、与えない。
 それは拒絶。なにもしないという拒絶。受動的であり、しかし積極的な拒絶。
 そんなことを、大好きな人から告げられてしまったら……それは、どんなに恐ろしいことだろう。
 名土先輩は淡々とそんなことを告げている。感情がない。あるはずの怒りの感情すらもニィに見せない。
 そうだ。それは言ったならばやるということだ。やるならば徹底すると言う意志の表示だ。
 名土先輩の言葉には感情もウソも躊躇いも感じられず、ただ強い意思のみがあった。

「あ、あ、あ……」

 ニィが震えた。その震えは辛うじて身体を支えていた両腕に伝わり、耐えきれずニィの身体は床に崩れ落ちた。床に着こうと震えは止まらず、ただただうめきのような嗚咽を漏らす。

「今回のみならばそうはしません。ですが肝に銘じなさい。もしまた竜ヶ崎様を害することがあれば、私はあなたに対してそうします」

 名土先輩はもう話は済んだと言うように、踵を返す。
 一歩歩みだし、そして、

「メイド学科の学生として、回復したならばきちんと後かたづけをしておきなさい」

 一言残し歩き出す。
 その足取りは本当になんでもないもの。なんでもなかったとでも言うような、普通の歩み。
 だから俺は、名土先輩が目の前に来るまでなにも言うことはできなかった。まるで何かに縛られたように、なにもできなかった。
 先輩が目の前に来てもなにも言えない。言いたいことが山ほどあるはずなのに、言わなくてはならないことがあるはずなのに、動くこともできない。
 でも、どうにか口を開こうとしたところで、

「まずは、保健室へ参りましょうか?」

 苦笑を浮かべた先輩の言葉。ようやく見ることのできた先輩の人間らしい表情にひどく安堵を覚えてしまい、

「ああ……」

 気の抜けたような返事を返すことしかできなかった。





 名土先輩に連れられたやってきたのは保健室。通常の授業はとっくに終わり、部活も終了したこの時間、保健の先生もとっくにいなくなっていた。夕陽も完全に沈み、今部屋を照らすのは蛍光灯の明かりのみだった。

「つつ……」
「大丈夫ですか?」

 そんな保健室の中、俺は名土先輩の手当を受けていた。
 保健室備えつけの椅子に座る俺の前、同じくイスに腰掛け名土先輩は背中を診てくれていた。上半身裸というのは気恥ずかしかったが、名土先輩は事務的にテキパキと手当てしてくれるのでさほど気にはならなかった。
 怪我と言ってもせいぜい打ち身と擦り傷程度。あとはニィのキャット・スラッシュによる切り傷がいくつか。大したことのない怪我ばかりだったが数が多いのがやっかいだ。
 ……いや、よくよく考えるとよくこの程度で済んだものだ。人間かと問われて「微妙」と平気と答え、空中を自在に動き回る「空中高速立体機動」を使いこなし、とどめにコンクリートすら破砕する「キャット・スラッシュ」。そんなのを相手に生きているだけでも幸運と言えるのかも知れない。
 でも大丈夫だったのは運だけではない。
 理由のひとつはまずはニィがあえて俺を倒そうとせず、追いつめることを楽しんだこと。
 でもそれは理由の半分。
 そしてもう一つの理由。

「ん〜……」

 前のベッドがからは寝息が聞こえる。聖の声。
 この聖がいてくれたからだ。
 あの”第三限界”とやらは体力を極度に消耗するらしく、保健室に着くなり、

「じゃあ、わたしは少し眠るから……一時間くらい眠れば大丈夫だから……」

 そう言い残して、ベッドにふらふらと潜り込むとすぐに寝てしまった。すごく深く眠っていることを除けば特に怪我らしい怪我もなかったらしい。……らしい、と言うのも、調べたのは名土先輩だからだ。さすがに聖も女の子。そのへんのことは気をつけなくてはならない。
 こいつにしてもとんでもない。通常の人間の限界を、それも二段階も超える”第三限界”なんていうすさまじい力を使った。その力を使ったニィとの対決はおよそ日常ではお目にかかれないとてつもないものだった。
 この学校に来てからなにやら常識ハズレなことばかりだが、今日は飛び抜けていたように思う。いや、すごい。現場にいた当初はともかく、こうしてわずかだが時間をおいてみると現実のことだったのかと疑わしくなってさえくる。

「……はい。終わりました」

 名土先輩の声に、思考の海に陥っていた思考が現実に返る。
 そこには、濡れ羽色の黒髪に白磁のように白く、整った綺麗な顔。安っぽい蛍光灯の明かりの下であるはずなのに、その双眸は夢のように美しい。
 しかしその貌を占めるのは、どこか落ち込んだ様子の、あまり見慣れない暗い表情。
 無言のまま、脱いでいたTシャツを着る。怪我が痛み手間取る俺を、名土先輩はなにも言わなくても手伝ってくれる。
 耳を占めるのは衣擦れの音と、微かに聞こえる聖の声のみ。
 静かと言っていい状況の中、なにかしゃべらなくてはならないと焦燥感がつのってくる。
 言いたいことがある。話さなければならないことがある。
 でも、こんなに静かな名土先輩は初めてだった。
 思えばよくしゃべる人だった。メイドとなるためことある毎にアピールして、よく気がついてよく世話してくれた。そんなときはいつも笑っていた。
 俺が知っている名土先輩の顔は、いつもの笑顔と、そして叱られたときの泣きそうな顔。あとは、メイドになって欲しいと頼んできたときの真剣な顔ぐらいだろうか。
 思えばそれしか知らない。
 だから、今の表情のない名土先輩は知らない。だから何を言っていいのかわからなくなってしまう。
 やがて着替えも終わり、後ろにまわって着替えを手伝ってくれた先輩が前の椅子につく。
 再び名土先輩と目が合う。が、それもつかの間。気まずげに先輩は目を伏せてしまう。
 この人が目を逸らすなんて事、ほとんどなかったというのに。
 なぜこんなことになってしまってるんだろうか? 考えるまでもない。原因は俺。昨日のあの一件。
 ……俺は何を黙っているんだろう。言うべき事がある。話さなきゃいけないことがある。自分で名土先輩と話そうと決めた。俺はもう立ち止まることをやめたはずだ。自分の意志で、前に進むと決めたはずだ。
 だったら、止まるな……!

「先輩!」
「は、はい?」

 いきなり声を上げた俺に、名土先輩は驚いて目をぱちくりさせる。素直な感情表現。なんだか気持ちが軽くなる。だから、自然に言えた。

「ありがとう」
「え?」

 また目をぱちくり。なんだか言って良かったという気になる。だから言葉を続ける。


「昨日、部屋を片づけてくれてありがとう」

 実際朝になってからも実感した。きっと俺だけだったらだらだらやって何日もかかって、しかもあんなに綺麗に整理する事なんてできなかったに違いない。

「落ち込んでいた俺を、励ましてくれてありがとう」

 神無月がこの学校にいることを知り、そしてやつが実際にどんなヤツであるかを知って。それで落ち込んでいた俺を、励ましてくれて。

「本当に、ありがとう」

 そう言って、俺は頭を下げた。

「や、やめて下さい。……そんなこと、なさらないで下さい……」

 名土先輩の言葉に顔を上げれば、そこには少し困った顔。

「お礼を言っていただけるなんて……嬉しいです。ですが……私は竜ヶ崎様の大切なものを……」
「そのことは……もう……いいんだ……」

 ぐっと拳を握りしめながら、血を吐くように言う。

「……気づいたんだ。本のことはいくらでも取り返しがつくことだ。でも、名土先輩に励ましてもらったことは、他に代わりができるものじゃない。あの時の名土先輩の言葉は、他の何にも代えられない」

 真っ直ぐに見つめて言う。
 しかし名土先輩は、眉を下げ、困ったような笑みを浮かべる。

「ですが……わたしは竜ヶ崎様の感謝を受けるに値しません……」
「何いってるんだよっ!? 先輩は立派なメイドじゃないかっ!」

 名土先輩の意外な言葉に語気が荒くなってしまう。しかし名土先輩は、ゆっくりと首を振り否定する。

「いままでは、そうであろうとしました。メイドチャンピオンの名を背負い、常にそうであろうと努めてきました……それができていると自惚れていました……」

 何かを恥じるように。何かから目を背けるように。そこで、名土先輩は視線を逸らす。

「ですが、わたしはそのことに……今まで疑問を持つことすらしなかったそのことが……わからなくなってしまったのです……」
「何をわからないって言うんだ……?」

 先輩の発言は何か妙だった。
 昨日、俺は先輩にひどいことを言ってしまった。それで落ち込んだりするのならわかる。でも、先輩がメイドであることがわからなくなるなんて事、あるんだろうか……?


「私、昨夜実家に電話をしたんです」
「実家に、電話……?」
「こんなこと、初めてだったんですよ」

 いきなり話題が飛んで戸惑う俺に、クスリ、と名土先輩は微笑む。
 どこか力の抜けた、でも危うさのある先輩の様子に、俺はようやく気づいた。

 この人は今、メイドじゃない。

 ニィに語りかけたときは無表情だった。今話しているときも苦笑に暗く落ち込んだ顔。そんな、見る者に不安や不快感を与えてしまう表情だ。今の微笑みにしてもこちらを戸惑わせるものだ。それは今まで名土先輩の見せてきたメイドの表情ではない。
 今日はまだ、あの、安心と信頼に満ちたメイドの微笑みは一度も見せていない。
 今見せているのはおそらく名土先輩の素顔。メイドではない名土先輩の顔なのだ。
 でも、それは。いったいどういうことなのだろうか。
 もしかしたら名土先輩はもう俺のことをご主人様として見限ってしまったのかも知れない。今までと同じく、俺に「様」づけで話しかけてくれているものの、それはあくまで社交辞令というか礼儀としてで、実はもう俺にご主人様になってもらおうという意志がなくなってしまったのかも知れない。だからメイドとしての表情を見せない。取り繕う必要がない。
 でも、それならいい。俺は見限られて当然のことをした。それは弁解のしようがないことだ。それならいい。それならば、まだいい。
 それなら名土先輩は、今まで通りメイドであるからだ。
 でも、そうではなかったら。
 何かひどく不安を感じる。もし名土先輩が、今までメイドであることだけを目指し、そのことを背負いそのために全力を尽くしてきた名土先輩が変わってしまったのなら、それはどんなに……。

「電話でお母様に今回のことを相談しました。竜ヶ崎様のこと。私がメイドになろうとして、断られてしまったこと……そうしたらお母様、とても驚きました。おかしいんですよ、電話越しなのにお母様の顔が見えるようなんです。きっと目を大きく開いてビックリした顔をして……お母様がそんな顔をしたことなんてないのに、不思議なんです。そんな顔をしているのが、頭の中にはっきりと浮かんでくるんです」

 また、クスクスと先輩は笑う。しかし俺はいっしょに笑う事なんて出来ない。不安がどんどんふくれあがる。よくない予感がする。

「それでお母様は言うんです。名土家のメイドがメイドとなることを申し込んで断られるなど、あってはならない。どんな手を使ってでもメイドになれ……って。どんな手。たとえ身体を使ってでもメイドになることを申し込め、なんて言うんですよ……」

 もう名土先輩は俺の方を見ていない。顔を俯かせ身を震わせ、しかしクスクスとまた笑う。見てるだけで痛々しくなる姿なのにそれでも先輩は話すことをやめない。

「それでもメイドになることを承諾してもらえなかったら……」

 そこで、言葉を切る。
 静寂が場を占める。しかし俺には言葉をかけることができない。もし言葉をかけてしまったら、何かが弾けてしまう――そんな理由のない悪い予感に、自分から口を開くと言うことができない。
 迷う間に、名土先輩は言葉を紡ぐ。

「その方を、婿としてしまえ、と」

 その言葉は理解できなかった。
 なんだよ、それ。おかしい。絶対におかしい。バカバカしい。理解できない。

「なんだよ、それ……?」
「結婚してしまえば、メイドとなる必要はなくなります。断られたのなら、そもそも頼む必要をなくせばいい……きっと、そういうことなのでしょう。でも……」

 ふっ、と息を吐く。軽い、呼気。しかしそれはなんて重く響くんだろう。

「それも仕方ないのかも知れません」
「なにが仕方ないんだよ、先輩! 先輩はずっと努力してきたんだろ!? それでも足りなくて、俺をご主人様にしてもっと己を高めたかったんだろう!? それを、そんな……! くっだらない! バカみたいじゃないか!」
「……確かにその言葉はひどい侮辱だと思いました。でも、でも、でも……その言葉より、私は……自分が……自分こそが……許せないのです」

 許せない? この人が自分の何を許せないと言うのか?
 ああ、でも、それは。俺は漠然と理解してしまっている。本当はもっと前にわかっていたのかも知れない。この人は、きっと……。

「結婚しろなんて言われて、そのことを少し想像してみて……そうしたら、わからなくなってしまったんです。竜ヶ崎様のメイドになろうとも、妻になろうとも……ご奉仕することはできてしまう。どちらも、同じなのではないかって、思ってしまったんです」

 やっぱり……そんな思いが胸を占める。
 しかし、それでも理性は否定する。心は理解しているのに、理性がどうしてもそれを受け入れない。

「……そんなわけないだろう……?」
「ええ。違うでしょう。でもそんなに違いのあるものでしょうか? ご主人様を想い、ご奉仕をする。妻として旦那様を愛し、お世話をする。そのことにどんな違いがあるのでしょうか?」

 全然違う。違うはずだ。だってメイドがご主人様にする奉仕と、妻が夫の世話をすることはまるで違う。意味も違うしやることだって違うはずだ。
 しかし、名土先輩にとってはどうだろう?
 今まで磨いてきた技術を、自分の愛する者、尊敬する者の為に使う。それはメイドの立場でも妻の立場でも変わらないのかも知れない。
 俺にはすぐにその違いをあげることができない。うまく説明できない。

「それならば……私はメイドを目指す必要なんて無いと言うことになってしまいます……」

 違う。そんなわけがない。先輩だって本当はわかっているはずだ。
 それなのにそんなことをいう。どうしてかと言えば……この人は見失ってしまったんだ。
 自分の拠り所であったはずの、「メイドである」ということを見失ってしまったんだ。

 ああ、やっぱりそうなのか。

 そうだ、俺は話し始めたときからわかっていたんだ。ただ認めたくなかった。この人がそんなことになるなんて思いたくなかったし、この学校でまたそんなことに出会ってしまうなんて、ありえないことだと思いこんでいたんだ。
 この人は、自分の拠り所としていたところを見失ってしまったんだ。
 俺が、神無月から別れを告げられたときのように。
 あのときと同じように……!

「わたしはどうしていいかわからない……今までやってきたことがなんだったのかわからない……何が正しくて、何が間違っているのかわからない……全部間違っているのかも知れない……正しい事なんて何一つなかったのかもしれない……」

 先輩はもう、何もかも抜け落ちてしまったような色のない表情でただただ言葉を紡ぐ。まるで、からっぽになってしまったみたいに。

「私は、なんなんですか……?」

 先輩は話しながら徐々に倒れていく。前へ、もう姿勢を正しているのも億劫だというように、身を折り沈みゆく。からっぽになってしまった先輩は、そのまま折れてしまいそうだ。
 だめだ。折れるな。崩れるな。
 そこで崩れ落ちてしまったら、ダメなんだ。それは、ひどく、ひどく……つらいんだ。
 だから俺はがっしりと、力の限り名土先輩の肩を押さえた。痛いほどに、強く。

「竜ヶ崎様……?」

 痛みに顔をしかめ、名土先輩が不安げに問いかける。

「先輩はメイドだ!」
「え?」
「先輩はメイドだ! メイドとしてがんばってきた今までの先輩の生き方は、絶対に間違ってなんかいない!」
「でも……」

 先輩は自信なさげに否定する。信じられないんだ。俺の言っていることは間違っていないのに。
 そうだ。そんなことがあっていいはずがない。先輩は努力してきた。がんばってきた。それが間違っていたなんて、あっていいはずがないんだ。
 どうすればいい? 俺はこうだったはずだ。同じように悩んだはずだ。俺はどうやってこの学校に来ることを決めた? あるはずだ。俺は同じ悩みを持ったことがある。だったらなにかできるはずだ。
 そして、ようやく閃いた。そうだ、きっとうまくいく。

「そうだ先輩! 今日何曜日だったっけ?」
「……木曜……ですが……?」
「よし。だったら明後日の土曜日は休みだよな?」
「は、はい……」
「その日、デートしよう」
「……え?」

 俺の突然の申し出に、先輩はとまどいの表情を浮かべるのだった。


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