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別離



 大好きな女の子がいた。
 
 子供の頃。公園でひとりぼっちだった女の子を、強引に手を引いて無理矢理遊びに加えた。
 すごく、ドキドキした。
 遊んでいるうちに、無口なその子のことを好きになってしまった。
 女の子も僕のことが嫌いじゃないと思った。
 だって、その子はいつだって一緒にいてくれた。
 猫のように距離を置いて、でも子犬のようにどこへでもついてきてくれた。
 だから。
 その子がある日持ってきた人形がうっとおしかった。
 人形を大事にしているその子を見ると、まるで僕の事なんて気にもならないようで、つまらなかった。
 ちょっといじわるをしようと思った。その子の人形をとって、乱暴に扱って……。
 気づくとその人形を壊してしまっていた。
 そのときぶつけてしまったのか、手が痛くて、血も出て。
 なにより、その子の悲しそうな顔がたまらなくて……
 僕は逃げ出してしまった。
 
 そのあとのことはよく覚えていない。
 
 ただ、しばらくすると女の子はいつものように僕の近くにいてくれた。
 猫のように距離を置いて、でも子犬のようにどこへでもついてきてくれた。
 嬉しかった。
 でも、恐かった。
 この子が当たり前にいるという、日常。それが壊れてしまうのが恐かった。
 だから人形を壊してしまった事を謝ることはしなかった。聞くこともできなかった。
 遠ざかるのは仕方ない。でも、自分から近づいて傷つけてしまうのが恐かった。
 だから、気にしないようにして。
 好きだという気持ちも、考えないようにして。
 気がつくと、その子は近くからいなくなっていた。
 そのことも、出来るだけ考えないようにしていた。
 
 でも、それなのに。
 その子は、いきなり近くにやってきたんだ。





 さらりとした黒髪がある。
 こぼれそうなほど大きな、黒くて澄んだ瞳がある。
 透き通るほど白い肌を赤く染めた、ふっくらとした頬がある。
 それらすべてが、目の前にある。
 光音が、いる。
 
「光音……?」
「雅弘……」

 触れるほど近くに光音の顔がある。
 光音は地面に倒れた俺の上に覆い被さるようにのっかっていた。
 細くて軽くて、でも女の子らしく柔らかい身体。
 そのことを意識すると、体温が上がる。
 
「と……」
「と?」
「とにかく、どけ」

 顔を背け、ぶっきらぼうになんとかそれだけ言う。
 そういうと、横目の隅に見える光音の顔は、よく見えないのに赤くなったのだけがよく分かり、俺は余計に照れてしまう。
 光音はあわてて、でももたもたと立ち上がる。
 続いて立ち上がると、今まで見上げていた背の低い幼なじみを見下ろす格好になる。
 光音は、なぜか叱られた子供のように俯いていた。
 いや、照れているだけかも知れない。
 
 俺の探していた答え。
 馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
 俺はどうやら……今でも光音のことが好きらしい。
 ガキの頃の初恋が未だに続いているなんて、我ながらしつこいものだ。
 こんなこと……気づいてみればなんてことはない。ただそれだけのことを、俺は今まで目を逸らしねじ曲げて解釈して、そして逃げ続けてきたんだ。
 バカだ。本当にバカだ、俺は。旨美よりバカかもしれない。
 
 光音が近くにいる。
 別に最近では当たり前になってしまったこと。ただの日常。
 でも今は……その事実を意識しただけで動悸が高まる。
 あらためて光音を見る。
 身につけているのは地味なこいつらしく学校指定のジャージ。しかしところどころ解れていた。
 よく見ればいつもは綺麗に整えられている髪も乱れている。

「……どうやってここまで来たんだ?」

 この森はトラップだらけだ。
 俺のように守屋のサポートがあるか、旨美のように強引に突破しなければここまで来れるはずがない。
 
「途中まで旨美ちゃんと一緒に……はぐれてしまったけど」
「そういうことか……」

 旨美の作った安全ルートを辿ってきたわけだ。
 途中まではそれでも大丈夫だろう。あとは運と実力。ここまで来れた光音は運が良かったのだろう。でもジャージの解れがそれだけではなかったことを物語っていた。
 いや、そんなことよりそもそも……。
 
「なんでお前、こんなところにいるんだ?」

 当たり前の、でももっとも気になる疑問。
 
「雅弘のこと、心配だったから……」
「へ?」

 一瞬、思考が停止する。
 リアクションがとれない。
 そんな俺の右手をとり、光音は繰り返す。
 
「心配だったから」

 かつて光音の人形を壊してしまった手。
 鈍い痛みが、あるはずのない痛みが走る。
 
「それだけ……なのか?」

 こくり、と光音は頷いた。
 信じられない。たったそれだけの理由でこんな場所まで来たのか?
 いくら旨美が先導したからと言って、トラップだらけで風紀委員とサイレント・フェスティバル実行委員が争っているこんな場所に……「俺のことが心配」、ただそれだけの理由で……?
 
「嘘だろう? だいたいなんでここに俺がいるって……」
「橘くんから聞いた」

 また、あいつかっ……!
 思えば、旨美が来たのも橘がそそのかしたからだと言う。旨美が知っていたのなら、ここまで来ている光音が知っているのも当然と言えるかも知れない。
 
「雅弘が、”サイレント・フェスティバル”に参加して、今ここにいるって……ここで無茶してるって……」

 俺の手を、両手でギュッと包み込み語る。
 とても暖かい。安らげる、暖かさ。
 こいつは、本当に、俺のことを心配して。
 ただそれだけの理由で、こいつはここまで来た。
 俺なんかのために、こんなところまで来たんだっ……!

「バカかおまえっ!?」
「バカなのは雅弘」

 いつもと同じように、光音は簡潔に即答する。
 何を言っているんだ、こいつは……なんでこんなに当たり前のことのように言うっ!?
 光音の目。
 迷いも後悔も見えない。ただ真っ直ぐに俺のことを見つめてくれている。疑うことなく、俺のことを見ている。
 俺にこの視線を受け止める資格はない。それなのに、こいつはっ……!

「バカはお前だっ! ここがどんなに危険か知ってるのか? トラップだらけでそこいらじゅうケンカが起きてるんだぞっ!」
「バカなのは雅弘っ! 危険なのがわかってて、なんでこんな所にいるのっ! 怪我をしたらどうするつもりっ!?」

 珍しく大声を張り上げる光音。
 だが、それに怯んでいられない。
 
「どうするもこうするもあるかっ! 俺は好きでここにいるんだっ! お前に関係ないだろっ!」
「関係あるっ! 心配だって言ってるでしょっ!?」
「誰が心配しろって頼んだっ!?」
「そんなこと言うんなら今日は夕食抜きっ!!」

 強い言葉。一歩も引かないと言う表情。
 それが、気に障る。
 なんでこんな無茶なことをする?
 なんでこいつはこんなに……こんなにっ!
 
「……いいかげんにしろよ」
 
 自分でも驚くほど、暗く沈んだ、そして何より怒りの籠もった声が出た。
 光音は驚いたように俺から手を放そうとし……しかし、片手は離れない。俺が手を握っているからだ。
 その手を引き、光音を鼻と鼻が触れるほど近くまで引き寄せ、叫ぶ。

「だいたいうっとおしいんだよっ! なんの断りもなく俺の食費奪いやがってっ! 図々しくうちの台所まで上がりんで飯つくりやがってっ!」

 ああ、止まらない。
 どうしていいかわからない気持ちが、どんどん溢れてきて、止まることが出来ない。
 
「言ってやるよ、俺がどうしてここにいるかっ!」

 本当に言いたいことはそんなことじゃないのに。
 本当は、お前がいてくれることは嬉しいことなのに。

「食費を稼ぐためだよっ! このサイレント・フェスティバルで食券儲けて、自分の食費を確保するためなんだよっ! 食い物をたてにお前に指図されるなんて、まっぴらごめんなんだっ!!」

 手が、汗ばむ。
 思わず力かが入ってしまう。しかし光音は強く握られても、自分から手を振りほどこうとしない。
 ただ目を見開き、呆然と俺の言葉を聞いている。
 
「お前なんて……お前なんてっ……どっかに行っちまえっ!」
 
 投げつけるように光音の手を振りほどく。
 その勢いに小柄な光音は倒れてしまう。
 それが見ていられなくて……俺は、背を向ける。
 なんでこんなことを言ってしまったんだろう?
 確かに最初にサイレント・フェスティバルに参加した理由は――少なくとも、表向きの理由はそうだった。
 でもそれは光音のことを好きだという気持ちをねじ曲げて生まれたものだ。本当にそう思っているわけじゃない。
 なんでなんでなんで。
 光音が近くにいることは嬉しかったのに。
 光音は確かに食費のことをたてに無茶を言うことはあったが、それだって本当には無茶な事じゃなくて……あいつは優しかったのに。
 それなのに、それなのに……。
 
「高坂くん……」

 通信機からの声。守屋だ。
 その声にはっとなり振り向くと……光音の姿はなかった。
 
「あ……あ……?」
「高坂くん、集計完了、集計班も無事脱出……ボクたちの勝利だよっ!」
「勝利……!」

 言葉がひどくうつろに響く。
 ”勝利”って、何だろう? よくわからない。
 
「これからルートを指示するから、高坂くんも早く脱出して」
「あ、ああ……」
「……お疲れさま」





 ぼんやりと守屋の指示に従う。
 守屋の言うとおり、ただただ足を動かす。
 途中、守屋も脱出するとかで連絡が途切れたが、トラップにも他の風紀委員に出会うこともなく、俺は裏山から出ることが出来た。
 そのまま家へと帰る。
 長い時間がかかったようにも思える。
 気がつくと、見慣れた家の扉が目の前にあった。
 開けようとするが、開かない。鍵がかかっていた。
 夕方に自分で鍵を開くのは久しぶりだった。
 鍵を開け中に入る。漠然と空腹を覚え、食卓へと向かう。
 電気のない食卓は、夕日のなかひどく暗く見えた。
 蛍光灯をつける。
 無人の食卓。その机の上にあったのは、飾り気のない茶封筒。
 光音の預かっていた、食費の入った茶封筒だった。

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