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十日目
(3)
そして拳も痛む


 ぼんやりと、見ていた。
 戸惑っていたのかもしれない。自分がなにをやったのか、なにをしているのか。なんだかよくわからない。
 視線の先には堅く握られた拳がある。
 その先――焦点の結ばれていないぼんやりとした背景の中動くものがある。
 
「ひどいな……いきなりなにをするんだい?」

 橘の声。。
 放課後の校舎裏。まだ日は落ちていないが、それでもどこか薄暗い場所。
 校舎の壁を背に口元を拭いながら立ち上がろうとしているのは、橘だった。
 
「すまん……いや」

 反射的に謝罪の言葉が出て、そしてムカムカとした気持ちがそれを否定する。
  
「今言ったことは本当なのか? お前が光音の制服を隠したって言うのは……!」

 熱いものが――たぶん、怒りが。再びこみ上げてくる。
 橘は得意そうに「制服を隠したのは自分だ」と言った。その瞬間、俺はカッとなって……気づくとこうなっていた。
 どこか自分のしたことに現実感が持てず、しかしこのムカムカとした気持ちは本物で、そしてジンジンとする拳が今実際に自分のしたことを物語っていた。
 俺は橘を殴ったんだ。それも、いつもの冗談に対するつっこみのようなふざけ半分ではなく……たぶん、全力に近い力で。
 橘はよろよろと立ちあがると服についた土を払い落とす。意外に落ち着いた様子だった。
 そして俺のほうに向き直るとゆっくりと語り出す。
 
「正確に言うと、その手引きをした。僕だって女子更衣室に忍び込むなんて無駄にリスキーなことはしない。それに隠したというのも違う。ただ教室に運んだだけだ」

 いつもと変わらない調子の橘にカッとなる。俺は橘に詰め寄るとその胸ぐらを掴んだ。
 
「てめぇっ……!」
「……なにをそんなに熱くなってるんだい?」
「お前自分が何やったかわかってるのか……!」
「今言ったとおりだ」

 まるで反省の様子が見られない橘に、胸ぐらを掴む手の力を増す。
 苦しげに眉を寄せる橘。
 
「もう一度聞くよ。君はなにをそんなに……川波光音のために、どうしてそんなに怒っているんだい?」
「なにをって……!」 
「よく考えてみるんだ。別になにが起こったってわけじゃない。ただちょっと制服が見あたらなくなって、川波光音は体操服のまま廊下を歩くことになった……今日起きたのはただそれだけのことだ。別に大したことじゃない」

 ……言われてみればその通りだった。別に大した事件じゃない。ただそれだけのことで、光音は次の授業に遅刻してしまったが(ついでに言えば俺もだが)、本当にただそれだけだったのだ。
 俺は橘から手を放す。
 
「……なんであんな事をしたんだ?」
「決まってる。”アピール”だよ」

 襟を正しながら、橘は言葉を続ける。
 
「君も見ただろう? サイレント・フェスティバルの投票日が近づき、女の子のアピールは最高潮を迎えている。……とは言っても学内でやることだ。どうしても限界がある。手は二つ……わずかな変化で地道にポイントを稼ぐか。あるいは逆に、思い切った手段をとるか……」

 この間、なんだか派手なアクセサリをつけてかけずり回る女生徒がいた。あれは明らかに橘の言う”アピール”なのだろう。
 言われてみればここのところ女の子が妙に綺麗になったような気がする。たしかにサイレント・フェスティバルが近づきそういうことを気にしているせいだと思っていた。でも、それだけじゃないと言う感覚は確かにあった。
 
「僕は少しばかり違うアプローチを考えた」

 橘は、にんまりと笑う。なまじ整った顔立ちだけに、その表情は嫌みなものではなくどこかさわやかだった。それで余計にむかつく。

「目立っただろう、川波光音は? 体操服というコスチュームはなんだかんだで人気が高い。校則に違反せず、程々に高い注目を浴びることが出来る。それにあまり派手なものは川波光音の個性にはあわない。現状ではベストな選択だったと思うよ」
「それだけか……」
「ん?」
「そんな下らないことのためにあんな事をしたのかっ!?」
「それだけとは随分だね。僕はサイレント・フェスティバルの為に……」
「光音は、泣きそうな顔してたんだぞっ!」

 橘はやれやれといった感じでため息を吐く。俺は思わず拳を握り……そして、辛うじて理性で押さえ込む。でもあと一言なにかあれば、また殴ってしまいそうだ。

「……そうだね。川波光音にはああいうことは苦痛かも知れないね」
 
 あっさりと……橘は、思ったより簡単に自分の非を認めていた。
 あまりに簡単に認めてしまったことと、いつものどこか楽しんでいるような顔ではない真剣な様子に、俺は言葉を失っていた。

「川波光音は……君も知っての通り人前に出ることを好む人間ではない。それを引きずり出したんだ。強引な方法も必要になるだろうしそうすれば彼女のを泣かせてしまうこともあるかも知れない。実際メイド服を着てもらったときには泣き出してしまったしね」

 自嘲気味に言うと、橘は一息つく。そして、改めて俺に真っ直ぐに向き直った。
 

「じゃあ、なぜ君は川波光音を選んだんだい?」


 橘の問いかけ。それは、ひどく胸に響いた。痛みを伴ったその響きは、しばし俺に答えることを許さなかった。

「え?」

 辛うじて絞り出したその声は、自分でも間抜けだと思うぐらい、オウム返しの問いかけだった。
 しかし、橘の言葉は続く。
 
「君はどうして川波光音を選んだんだい?」
「な……」
「川波光音をサイレント・フェスティバルの優勝候補にするべく活動する……それを選んだのは君だ」
「だって……こんな事するなんて思わないだろうっ!? なんだよ勝手なことばっかり言いやがって……思わせぶりなことばっかり言って、いつも俺には相談もなしに勝手にへんなこと進めやがってっ! それで責任だけは俺にあるって言うのかよっ!? ふざけんなっ!!」
「君は……」

 まくし立てる俺を、橘は片手を上げる動作と一言のみの問いかけで止める。言葉を止めた俺に、橘はゆっくりと語り始める。
 
「君は、僕がそういう人間だと言うことを知っていたはずだよ」

 なにも言えなかった。
 一時バカバカしくなったというのも事実だが、なにより……こいつの言っていることは間違いではなかった。そう。俺は橘のことを知っていたのだ。自分勝手にどんどん変なことを進めていったしまうヤツだと言うことを、知っていたのだ。
 
「だから、君は止めることが出来たはずだ。なんなら今みたいに僕のことを殴ってね。でも君はそれをしなかった」

 そうだ。確かに止める手段なんていくらでもあった。こいつはそれでもサイレント・フェスティバルに参加することをやめはしないだろうが、光音に変なまねをさせることぐらいはやめさせられたかも知れない。
 だが俺はそれをしなかった。
 橘の言うとおり……光音を優勝させることを選んだのは俺なのだから。
 
「そんなに川波光音に食の全権を握られるのがイヤだったかい?」
「それは……」

 本当は、どうなんだろう?
 それはそんなに嫌なことなんだろうか? 俺は、光音が朝起こしに来てくれて食事を用意しているという現状を……本当に、こんなことをしてまでもやめたいほどイヤなんだろうか? あいつが近くにいてくれる今の”日常”が、イヤなんだろうか?
 
「それとも……君は言っていたね。”川波光音がかわいいという事実を証明するため”、とか。そのためなら、川波光音を傷つけることも厭わないのかい?」

 俺は答えることが出来ない。
 俺は、なんでこんなことを始めたんだろう。そして、なんで途中でやめることを選ばなかったのだろう? なんで……。
 
「君は、本当はなにを望んでいる?」

 答えられず、ぐっと手を握る。
 望んでいる? 俺は何かのためにこんな状況に身を置いているというのか?
 わからなかった。
 橘はそんな俺に呆れたようにため息を一つ吐く。しかしその顔はどこか不安な色があり……まるで俺のことを心配しているように見えた。そんなわけはないのに。

「まあいいよ。どちらにせよ川波光音に対する宣伝活動はこれで終わりだ。明日からは試験だし、そのあとはおそらく投票日……もう、無理にじたばたしても状況は変わらない。僕はもう干渉しない。だから……」

 橘は、俺の目を見て語る。

「これからどうするか、君の自由だ」

 俺はなにも言えない。なにも答えることが出来ない。
 自然と、顔が俯く。
 
「ただ……一つだけ言わせてもらうよ。答を見つけたいのなら、このサイレント・フェスティバルには最後までつき合うんだね。そうしないと……きっと、後悔するよ」

 立ち去る足音に紛れて、橘の声が響く。
 だが俺は、その場からしばらく動くことができなかった。橘を殴った手が、別に怪我をしたわけではないのに熱く痛みを発していた。


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