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六日目
(1)




 わ〜ん わ〜ん

 だれかが泣いている。
 ああ、そうだ。
 ぼくの手。
 血まみれの手。
 その中には、壊れた木の人形。
 あのこの大事にしていた人形。

 わ〜ん わ〜ん

 ああ、そうだ。
 あのこがその人形をあんまり大事にするものだから、それが気に入らなかった。
 それで、乱暴に扱って、壊してしまった。
 壊れた人形はぼくの手を傷つけて。
 ぼくの手からは血が出て。
 あの子は血を怖がって。
 大事にしていた人形を触ることもできず、ただ僕の手にすがって。
 
 わ〜ん わ〜ん
 
 泣いていた。
 ぼくは恐くなった。
 恐くて恐くてたまらなくなった。
 だから、あの子の手を振り払い、駆け出していた。
 
 わ〜ん わ〜ん
 
 あの子の泣く声がいつまでもついてくるように思えた。 
 
 好きな子の大事なものを傷つけて。
 好きな子のこころまで傷つけて。
 自分の手まで傷つけて。
 こんな僕は、もうだれにも好きになってもらえないんじゃないか。
 血にまみれた手で耳を塞ぎ、ぼくは脅えながら走り続けていた。
 




 ゆっくりと起き上がる。
 目の前にはフライパン。
 
 ワ〜ン ワンワンワンワン
 
 震動に震えて、奇妙な音を出すフライパンがあった。
 その震動の元には、背の低い幼なじみ。
 光音。
 その表情は、いつもの無表情。しかし、どこか真剣な表情。俺を起こすことがそんなに一生懸命になることなのだろうか? 
 苦笑する。
 
「……どうしたの?」
「なんでもない」

 フライパンのワンワンという震動音は、徐々に小さくなっている。
 あの音を誰かの泣いている音と聞き違えるなんて……今まで光音が変な音を出していると思ったが、俺の方もどこかおかしいのかもしれない。
 とにかく、誰も、泣いていないのだ。

「よかった……」
「……大丈夫?」
 
 安堵のため息を吐く俺に声をかけてくる光音。
 覗きこむ小さな顔は、やはり表情に乏しい。しかしその瞳の奥には不安げな色が見える。
 心配してくれているのだろうか、俺を。
 
「別に。……どっかおかしいか?」
「なんだか……」
 
 そこで、光音は言葉を飲み込む。
 何かをためらっている。
 
「いいよ。気になるから言ってみろ」

 だが光音は何も応えない。無言のまま、両手を伸ばす。
 小さなその両の手は、俺の右手をやわらかく包んだ。
 光音の手は、ひどく暖かく感じられた。見れば、俺の指はやや白くなっている。すこし、痛みもある。どうやら眠っている間に、痛くなるほど拳を握りこんでいたらしい。
 その手を癒すように、光音の手は優しく温かく包み込んでくれた。
 それが、あまりに暖かくて。
 それが、とてもありがたく思えて。
 それで、なんだかこみ上げてくるものを感じて。
 俺は、乱暴にその手を振り払った。
 
「今、何時だ?」

 強引に話題を逸らす。
 光音は、

「10時」

 いつもと変わらずに、短く答えてくれた。
 なぜかそのことに安堵を覚えつつ、俺はとにかく現実に目を向けようとする。
 10時。休日にしては早い。遅い時間ではないが、まだ眠っていたい。
 
「早い。もっと寝かせてくれ」
「ダメ。起きて」
「なんでだよ」
「今日は、お掃除」

 スチャ。
 言いつつ、フライパンとおたまを構える。いつもながらなかなかに見事な構えだ。しかし、微妙に構えが違うような気がする。ひょっとしたら掃除用の構えなのかも知れない。持っているのはフライパンとおたまだが、ほうきとはたきに置き換えたらハマりそうな構えだった。
 って、掃除?
 
「は? 何で急に?」
「おばさんに頼まれたから」
「べつにいいよ、掃除なんて」

 毎食作ってもらってしかも掃除なんていくらなんでもまずいだろう。なにより、いくら幼なじみとはいえ家の中をいろいろ見られるのは抵抗がある。
 まあ、確かに掃除はしてないから、すこしほこりっぽい気がしないでもないが、でもたいしたことはない。

「だいぶちらかってる」

 光音の意見は違うようだった。
 
「別に頼まれたからってやる必要はないよ。俺が適当に言っておくから……」
「いまお昼のメニューが変わろうとしています」

 光音の発言に、俺は言葉を止めた。

「……どんな風に?」
「劇的に」
「……どんな方向に?」
「質素に」

 相変わらずの簡潔で容赦の感じられない物言いに、勝ち目はないらしいことを悟る。

「わかった、降参」

 両手を広げ、敗北をアピール。
 光音はドアのほうを向き、振りかえりながら
 
「じゃ、早く」

 と言って部屋を出ていった。

「はあ……」

 一人になり、ため息を吐く。
 右手を、見つめる。
 昔、光音の大事な人形を壊してしまい、傷ついた手。
 別に傷跡が残っているわけではない。血は結構出たが、深い傷ではなかった。今では跡形もない。
 その手にまだ、光音に握られた暖かみが残っているような気がした。
 
「別に、何を許されたわけでもないってのに……」

 人形を壊してからも、光音は変わらず俺の後ろをついてきていたように思う。
 だが、ちゃんと謝った覚えはない。特に許してもらった記憶もない。
 俺はそのことを今まで思い出しもしなかった。忘れていたわけではないが、光音に飯を作ってもらうという今の状況になってから、そのことを思い起こすことをしなかった。
 しかし今、手に残る暖かみに安堵を覚える自分がいる。
 
「ムシがいいよな……」

 憂鬱な思いを振り払うように、俺は必要以上に勢いをつけ、ベッドから立ち上がるのだった。

 

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