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「起きるがいい!」
 上から降ってくる声に、大倉 隆司(おおくら りゅうじ)は不機嫌に目を覚ました。
 開いた目に飛び込んできたまぶしさに、隆司は目を細める。
 朝の光。そしてそれより明るくまぶしい、弾けるような笑顔。それらが彼が目覚めて最初に目にしたものだ。
「ふっ! 目覚めたか! いつも思うことだが! 目覚めた最初に見るものが、このわたし、如月 あやめであるとは貴様は世界一幸運な男だな!」
 笑顔のままに、まだ朝も早いというのにテンションをぐんぐん高め叫ぶのは、女の子だった。
 くりくりとしたややつり目がちな大きな瞳が、朝の光の中きらきらと輝いている。真っ直ぐに伸びる亜麻色の髪は、一本一本が細く、朝の光の中に融けてしまいそうだった。
 その要素だけを見れば、朝日の中にあるその少女は、光そのもののような無垢さをもつ、可憐な少女と言えるだろう。
 しかしそれだけでは少女を言い表すのには足りない。
 腰に手を当て、おおきく胸を突きだしたそのポーズ。肩幅まで足を開き立つその姿。なにより、その顔を占める自信に満ちた笑み。
 無垢というには傲慢すぎ、可憐と呼ぶには不遜な在り方。
 それが、彼女。
 その名は如月 あやめ(きさらぎ あやめ)。
「ああ、おはよう」
 あくびをかみ殺しながら呟き、彼はあやめの呼びかけに答える。そしてゆっくりと、身を起こす。
 起きた。だが、その目は半分閉じていて、まだ寝惚けているようにも見える。顔つきも穏やかと言うよりはおっとりとした感じで、それがなおさら眠たそうに見える。
 だが、これが隆司の常態。彼は朝のおはようから夜のおやすみまで、この半眼でだるそうに過ごすのだ。
 そんな彼を、しかしあやめは満足そうに見つめている。
「よし、起きたな。この私の美声で毎朝目覚めることができるのは、世界でも有数の幸せなことなんだぞ! わかっているか、隆司!」
 そう、これはいつものこと。
 隆司とあやめは幼なじみの関係だ。二人にとってこんなやりとりは、それこそ数え切れないほど繰り返してきた日常なのだ。
 だから隆司が、
「お前はいつも朝から元気がいいなあ……」
 などと、やはり「いつものように」呟くのも、決まり切った朝の儀式のひとつみたいなものだった。
 起きあがったことで、隆司とあやめの目線の高さが並ぶ。
 そう背の高いベッドではない。そして隆司も身長は170センチをやや越えるところ、座高も平均的だ。
 それでも高さが揃うのは、あやめの背が低いためだ。背も低く、少女らしいその体型は可憐の一言だ。知らない者が見れば、あやめと隆司の年齢差は3歳は開いていると思うことだろう。もちろん、あやめの方が幼く見える。
 だが、あやめの身に纏う制服は隆司と同じ学校の物だ。襟元で結ばれたリボンの赤色は、隆司と同じ高校二年生であることを示している。
 すっかり背が離れてしまった隆司と、こうして高さが同じになる。
 だからあやめは隆司を起こしに来るこの時間が大好きだった。
 だが彼女は欲張りだ。この時間を、もっと幸せなものにしたかった。
「どうした隆司? 感謝の言葉はまだか?」
 それは当然の要求をしているかのような不遜な物言い。しかし、その瞳は大好きなおもちゃを前にした子供のそれだった。
 そんな可愛らしい姿をスルーできる者などそうはいないだろう。
 だから隆司は仕方なくベッドから立ち上がる。
「めんどくせぇなあ……」
 上へと離れる彼の顔を見上げていると、あやめの頭に振ってきたのは彼の手だった。
 それがすこし乱暴に、でも確かな優しさをもってあやめの頭を撫でた。
 彼にとって、あやめの要求通り、わざわざ賞賛の言葉を贈るなどめんどうくさかった。
 ベッドから立つのは当然しなくてはならないことで、立ち上がればあやめの頭は手を置きやすい位置にある。
 だから、撫でた。
 それが彼にとって最低限のめんどうくささだった。
 いつも隆司がすることだった。
 だから、
「い、いつも言っているであろう! 子供扱いするなあっ!」
 あやめが叫び、隆司の手をはねのける――それもまた、いつも通りの光景だった。

 めんどくさい伝説はえらそうに探せ!

 12月初めの朝の空気は、ピンと張りつめ冷たい。最近急に寒くなり始めたこともあり、通勤に通学にと歩く人々の足は、寒さになじめないとばかりにどこか鈍い。
 しかし、その中にはそんな冬の寒さなどおかまいなしに自分のペースを保つ者達がいた。
「まったく……この純粋にして可憐、加えて高貴この上ないこの私の頭を幼子のように撫でるとは……貴様はなんと無礼な男だ」
「ああ、すまんな」
「あやまりつつ撫でるなあっ!」
 またしても自分の頭を撫でる隆司の手をはね除け、あやめは叫んだ。
 そしていそいそと乱れた髪を整える。彼女の髪はストレート。その乱れのなさが美しさの要だ。
 いつものこと。幼なじみである二人が、なんども繰り返してきた朝の一幕。それはこの寒々とした朝の空気の中でも変わることはない。
 ただ、今朝はいつもと少しだけ違った。

「よし! 隆司! 今日は特別に、貴様の不作法に挽回の機会を与えてやろう!」
 あやめがそんなことを言い出したのだ。
 訝しげな目で隆司はあやめを見つめる。その視線は誰が見ても同じ言葉が浮かぶだろう。「何言ってるんだこいつ?」、と
 あまりに無遠慮な視線に、あやめは一歩退く。しかし、退いたのは一歩だけ。そこで踏みとどまる。
「ど、どうだ? うれしかろう? うれしいときは隠すことはない! なに、照れることはない! 存分に喜びに打ち震えるがいい!」
 あくまで強気に、自分らしく主張する。そんなあやめに、隆司はため息一つ。
「めんどくせぇなぁ……」
 言って、あやめの脇の下に手を差し入れた。
「!?」
 そして、一気に持ち上げた。小柄とは言え一人の人間を軽々と持ち上げるとはなかなかの腕力だった。
 急激に高くなる視点と、なにより地に足が着かぬ不安感。あやめは目を白黒させる。
「りゅ、隆司っ!?」
「わーい、うれしいなー」
 混乱するあやめに、隆司は棒読みで喜びのセリフを返す。表情も動いていない。
 どうやら、からかわれているらしい。
 そのことに気づき、あやめは醜態はさらせないと思った。。
 だからいつものように彼女は胸を張り……といっても持ち上げられた現状、そんなことはできないのだが、気持ちだけはそのつもりで言う。
「そ、そうか。そんなに喜んぶとは素直なヤツだ。苦しゅう無いぞ……って、うわあっ!?」
 が、そんな精一杯の虚勢も中断された。
 急に隆司がくるくる回りだしたからである。もちろん、持ち上げられたあやめはその回転の勢いに容赦なく晒される。
 高い。速い。だから、恐い。
「わーい、わーい、うれしいなー」
 あくまで棒読み、表情を変えない隆司。
「ちょ、隆司っ、こわ、怖いーっ!」
 対照的に、半泣きで叫ぶあやめ。
 あやめの恐怖が臨界に近づき、そろそろマジ泣き一歩手前という絶妙なとき。そこで、
「さーて、てをはなすかー」
 隆司は、あくまで棒読みでそんなことを言った。
 あやめの背筋は冷たくなる。
 今まで限界だと想っていた恐怖がそれを一気に飛び越えて高い高い空の上へ。
 そしてそれは、声となった外へ出た。
「らめぇーっ!」
 恐怖が下の動きを鈍くし、「ダメ」と言ったはずの声をそんな舌っ足らずにしてしまう。言った途端、あやめは耳まで真っ赤になる。
 それを確認すると、隆司は徐々に回転を弱め、それに合わせてあやめを持ち上げる高さもまた低くする。
 そして、ゆるやかに、静かに。あやめは無事、着地することができた。
「ふえ……?」
 きょとんとするあやめの頭の上に、ぽんと手が載せられる。びくんと震えるあやめ。
「ああ、満足した。朝からお前の『らめぇ』を聞けるとはな。今日はきっといい一日になる」
「ううっ……ひどいっ……」
 顔を真っ赤にし、半泣き以上マジ泣き未満と言った様子だった。いわば七分泣き。女の子がもっともかわいく見える瞬間の一つである。
 あやめは昔から、慌てすぎると舌っ足らずになってしまう。隆司にからかわれ、こうして「ダメ」と言おうとして「らめぇ」となってしまう。それでなおさら隆司にからかわれることもしばしばだった。
 あやめは昔からこのことを恥じていた。しかもつい最近、隆司に某成年推奨のマンガを教材に、「らめぇ」がエロいマンガにおけるとてもエロい場面で使用される言葉であることを知らされた。それから恥ずかしさはさらに増している。
 しばらく待ち、あやめが三分泣きほどまでに回復したところで、隆司は声をかける。
「気分が良くなったから聞いてやる。挽回って、なんのことか」
 あやめはぐっと瞳にたまる涙をぬぐい、腰に手を当て胸を張る。
「ふっ! ならば聞かせてやろう! 貴様をこの私、如月 あやめの探索に加わらせてやろうというのだっ! 寛大なるこの私に感謝するがいい!」
「探索?」
「学園に伝わる伝説の探索だっ!」
 びしりと人さし指を立て、あやめは言い切った。
 伝説の探索。
 隆司には見当が付かなかった。
「伝説って……学園の七不思議とかそういうのか?」
「それは! 昼休みにでもはなしてやろう! それまでのお楽しみだ!」
 そう言うが早いか、亜麻色の髪を翻らせあやめは駆け出した。
「あ、待てこのっ」
「はっはっはっ、ついてくるがいい!」
 楽しそうな声。あやめはからかわれたから、逆にからかってやろうという魂胆だ。その証拠に声だけでなく、さっき泣いたのが嘘のように楽しげな笑顔を浮かべている。だが。
「いいだろう。俺ももう一回ぐらい『らめぇ』を聞いてもいいと思ったんだ……!」
 あやめの笑顔が微妙に引きつった。
 隆司の声は低くて楽しさなどなく、なによりあやめを追う足の速さもけっこう本気だ。
 だから、あやめは悟った。

 もし追いつかれたら、また持ち上がられて振り回される、と。

 あやめは全力で走る。余計なことを言う余裕はなかった。
 隆司もそれなりに気合いを入れて走る。こちらは元々、余計なことを言う気がない。
 そして二人の無言のおいかけっこが始まった。
 結果、二人は始業開始前よりだいぶ早く、学校に着くことができたのだった。





 それは、この学校に昔からある伝説。
 学校のどこかにある、一本の桜の木。その木を見つけ、その下で告白した男女はそれからずっとずっと、しあわせに過ごすことができる。
 そんな、恋の伝説。
 




「そんな伝説があるのだ!」
 あやめは得意げに言いながら、メンチカツをひとくち食べた。
「どっかで聞いたような、ありふれた話だな」
 昼休み。二人は学食で、向かい合い食事をしていた。朝の宣言通りに伝説について語るあやめの話に、隆司は耳を傾けていた。
 隆司の言うとおり、どこかで聞いたような話……というよりは、どこにでもありそうな伝説だった。正直、もったいぶるほどの話でもなかった。
「ところがそうでもないのだ!」
 そして、今度はハンバーグを一口。
 あやめの昼食はスペシャルランチだ。自称「高貴」な彼女にとって、学食としてはやや700円という高価なランチを選ぶのは必然という考えに基づいての選択だ。
 もっとも、学食では価格の高さは質より量に関係する。このスペシャルランチも例外ではなく、小柄な彼女にはややボリュームがありすぎる。食べきれず、残すこともしばしばだ。
 それでもスペシャルランチを選び続ける。それが彼女のこだわりであり、プライドだ。
 対する隆司の昼食は、290円のキツネうどんに60円のライスと、合計350円の安さと量が売りのオリジナルセットだ。
 とりあえず迷ったときはこれを選ぶ。それが彼のこだわりのなさであり、ぐうたらだ。
「伝説では、この木の下で告白を受ければ一生幸せ……だが、断った場合生きては帰れないと言う……」
「物騒だな」
「死体が埋まる桜は、綺麗に咲くと言うぞ……? だからその伝説の桜の木は、毎年とても綺麗に華開くそうだ……ふふ、面白いではないか。本気の恋愛にはそれぐらいリスクが無くてはなあ」
 つるり、と一本、うどんをすすると、隆司は
「どこの怪談だよそれは?」
 と突っ込む。しかし、
「この学校の怪談なのだ」
 あやめはなぜだか、自信満々に答える。
 隆司は再び突っ込もうとし……だが、やめた。不毛だ。なによりめんどうくさい。
「だがしかし! 学校の怪談と言っても学校の七不思議には含まれない。隠された八つ目の不思議というのがこの話のミソなのだっ!」
「よくそんなの知ってるな」
 ツッコミどころがいくつもあったが、隆司はスルーして話を進める。
 しかしあやめはそれをスルーの言葉とは受け取らなかった。感嘆の言葉だと思い、だから盛り上がって、ついには立ち上がった。
 拳を振り上げ、絶好調な様子であやめは叫ぶ。
「当然だ! この私を誰だと思っている!? この高貴なる如月 あやめの元には、ありとあらゆるおもしろ情報が集まるのだ!」
「大変だな」
「ノーブレスオブリッジ! 貴族の義務というやつだ! この程度は当然!」
 ちなみに安さが決めての学食で食事していることからもわかるように、あやめは貴族でもなんでもない。隆司と同じくごく一般的なご家庭の、ごく一般的な女の子だ。
 どうしてこうなったのだろう、と隆司はたまに考えることがある。ちょうど、今みたいに、人目があるところでこんなふうにテンションアップしたときなんかだ。
 隆司の記憶では、あやめは子供の頃にやっていた魔法少女もののアニメに憧れていた。特にライバル役の女の子がお気に入りだった。ライバル役の女の子は一般家庭の主人公とは違って金持ちで、よく高貴とか貴族とか口にしていた。あやめはよくマネをしていたものだった。
 隆司は当時からめんどうくさがりで、幼なじみのそうした奇行をとめようとはしなかった。
 そしてあやめもまた当時から調子に乗ったらどこまでも、という性格だったので、そのまま突き進んでいた。
 気づけば、高校生になってもあやめはこんな感じだった。三つ子の魂百までも、というやつである。そろそろ取り返しがつかないのかも知れない。
 隆司はたまに考える。
 自分が止めていたらこうはならなかったのだろうか、と。
 そしていつもそこで考えることをやめる。
 めんどうくさいからだ。
 だから彼がこうしたときにすることは一つ。
「そうか。まあとりあえず席に着け」
 とりあえずスルーだ。そしてたしなめる。
「ああ!」
 ニコニコと上機嫌であやめは席につく。基本的には素直な娘なのだ。
 お互いに好き勝手に突き進んでいるようで、なんだかうまくかみ合っている。幼なじみならではの、端から見ると不思議な関係だった。
「それで俺にさせようと言うのは……」
「その通り! 下賤なものにしては察しがよいぞ、隆司! その桜の木を探しに行こうというわけだ!」
「そうか」
「それが朝話した、貴様の挽回の機会だ! 粉骨砕身の覚悟で励むが良いぞ! どうだ、うれしかろう? ふははははははっ!」
「そうか、がんばれ」
 言って、隆司は立ち上がる。彼はもうキツネうどんもライスも平らげていた。
 ハシや椀の乗ったトレイを持ち上げ、何事もなかったかのように立ち去ろうとする。
 そんな隆司をあやめはぽかんと眺め、しかしすぐに動く。
「待て待て待てっ!」
 隆司の前に両手を広げ立ちふさがる。
「私の話を聞いていたかっ!?」
「いや、あんまり」
「どうしてっ!?」
「めんどくさかったから」
「なんだとーっ!」
 怒りにあやめの身体が震え出す。
 それをなんとなく眺めながら、隆司はなんだかめんどくさくなってきた。
 とりあえず、トレイを持っているのがおっくうだ。だから、
「ほれ」
 あやめの頭の上にトレイを載せてみた。
「な、なにをする隆司っ!?」
「高貴な人間なんだろう? そういうヤツはいつも正しい姿勢で優雅なはずだ。当然、頭の上に載せられたトレイを落とすはずがない」
 言われてあやめの脳裏をよぎるのは、昔見たテレビの一幕だ。その中で、貴族たれとしつけを受ける少女は頭の上に本を載せたまま、それを落とさず姿勢正しく歩いていた。
 だから、
「と、当然だ!」
 言い放ち、彼女は優雅に立つ。
 思いこみの力か。うどんとライス、二つのお椀にくわえて水の入っていたコップまでのっかり、不安定なはずのトレイが安定した。落ちる気配はまったくない。
「すごいな」
「当然だ!」
 あやめはそう言って胸を張るが、それでもトレイはゆらぎもしない。
 たしかに凄い。しかしそれは貴族と言うよりは大道芸の領域だった。
「それより! この私の頼みだ! 貴様、まさか従わないつもりではなかろうな!?」
「なにやらせるつもりだ?」
「だから! 伝説の木を探すのをっ! 手伝えと言っているんだーっ!」
 絶叫だった。トレイは大いに揺れた。それでも落ちない。隆司は思わず感嘆のため息を吐く。マジ凄い。
「手伝ってくれるんだろう……?」
 言って見上げる瞳は、強烈だった。
 捨てられた子猫の瞳のようなひたむきさと愛くるしさ。
 餌を持った親鳥を待つ、雛鳥のような純粋さと必死さ。
 それらを併せ持つ、どこまでも保護欲をそそる瞳だった。
 そんな瞳を目の前にしたら、誰でもしたがってしまうだろう。
 だが、隆司はあやめとは幼なじみ、長いつきあいだ。その瞳もまた見慣れていた。少なくとも、それに抵抗できるほどには。
 断ることはできる。
 しかしそうすれば、あやめは泣くだろう。駄々をこねるかも知れない。明日の朝起こしに来るとき、なにか仕掛けてくるかも知れない。
 それら全てが隆司にとって、
「めんどくせえ」
 その一言だった。だから、
「わかった。放課後、探しに行こう」
 その言葉にあやめの顔がほころんだ。それは普段の彼女の自称「高貴」な表情ではなく、年相応の可憐でかわいらしい微笑みだった。
 つまりそれは気が抜けたと言うことで。
 だから、頭の上のトレイは落ちた。
「うわしまったーっ!」
 トレイから落ちる椀とあやめの声が巻き起こす盛大な騒がしさに、また面倒くさいことになったと隆司は思うのだった。
 




「で、どこに行くんだ?」
 放課後になり、隆司はあやめの導くままに、とりあえず靴を履き替え外に出た。カバンは持っていない。
「持って来たら逃げられるかもしれない」とはあやめの弁。
 隆司はめんどうくさがりだ。逃げ出すなんて面倒くさいはなかなかしない。だが、逃げることよりめんどうくさいとを前にしたとき、彼はためらわず逃げる。
 そう。彼はめんどうくさがりなのにやるときはやる。そしてそんなときはとてもアクティブなのだ。長いつきあいで、あやめはそのことをとてもよく知っていた。
 今日はそれにくわえて、あやめは隆司と手を繋いでいた。
 ちなみに隆司がそれをどうこう言わないのもやはり、めんどうくさいからだ。
 手を繋いでからの彼女は上機嫌だった。だから隆司の疑問にも即座に得意げに答える。
「まずは校舎裏だ」
「そんなところに桜の木なんてあったか」
「この私にも知らないことぐらいある」
 隆司の足がピタリ止まる。二人は手を繋いでいるのだから、結果、あやめもまた止まらざるを得なくなる。
「な!? なぜ足を止めるっ!?」
「いや、もし桜の木がなかったら、すげえめんどくさいとか思ったら足が進まなくなってなあ……」
「こ、この私がみずから手を取って導いているのだ! 貴様はただその栄誉を誇りながら足を進めればいいっ!」
「いや、めんどくさい」
「ぬぬぬっ! ならこうしてやる! ぎゅ! ぎゅ! ぎゅぎゅーっ!」
 あやめは全力で隆司の手を握りしめる。だが、隆司にはあまり痛くない。そもそも小柄な彼女のこと、手だって小さい。その力も大きさに比して小さいのだ。
 だがいっしょうけんめい手を握るあやめは、本人は必死なのだろうが端から見るとおもしろい。なんだか楽しそうだった。
 あまりに楽しそうなので、隆司はためしに握り返してみた。
「いたたたたたたたっ!?」
 さらに、あやめがやったように強弱をつけてぎゅっ、ぎゅっと二度三度握り込む。
「ひぎぃ、らめぇっ!」
 面白い悲鳴が出た。『らめぇ』はともかく『ひぎぃ』は珍しかった。そういえば『ひぎぃ』もそっち系の言葉であると、あやめにまだ教えてなかったことを隆司は思いだした。
 そんな新たな発見に満足し、隆司は握る手の力を弱めた。
 あやめはようやく一息吐く。
「ううっ……だから、校舎裏に桜の木があったかはこの私も憶えていないが、そういう情報があったのだ……確かめなくてはならないのだ……」
「そうか」
 隆司はちょっとした発見に気分が良くなったし、それに見つけられないのはそれはそれでめんどうくさいという思いもあった。だから、
「行くか」
 とあやめの手を握る。一瞬身構えるあやめだったが、今度の力加減は絶妙だった。握られる力強さ、それでいて包み込まれる優しさがある。そしてもちろん痛みはない。
「初めからそうしてくれればいいのに……」
 言って、俯く。顔が赤くなっているのは、先ほど『らめぇ』と言ってしまったからだけではないようだった。
 そんな穏やかな歩みの中、やがて校舎裏へつづく角が見えてきた。そこからは、わずかだが白いもやが立ち上って見えた。
「あ、ほら隆司! いかにも伝説っぽいぞ! さすが私だ、すごいぞ! 早くも伝説に辿り着くとはっ!」
 たしかに、その白いもやは見ようによっては神秘的なのかも知れない。しかし隆司には、それとは違うちょっと嫌な予感がした。
 しかしあやめは駆け出、引きずられるように隆司もまたその白いもやの舞う校舎裏へと近づいていく。
 そして、角を曲がり……そこで唐突にあやめは止まった。
 隆司が見れば、そこには毒々しい赤があった。
 それは安い染料で染めであろう、赤い髪。そしてその髪の下には、あやめをにらむ目つきの悪い濁った眼があった。
「なんだ? おまえら何しに来たんだ、ああ!?」
 見渡せば、校舎裏の奥には5、6人がたむろしている。しゃがみ込み、円を囲み、どうやらタバコを吸っていたらしい。
 今時めずらしいくらいわかりやすい不良達の、とてもわかりやすい校則違反の現場だった。
「ひ、あ、あの……私は……」
「ああ! 見せもんじゃねえぞコラ! とっとと出てかんかいコラ!」
「で、でも……私は……」
「ああんっ!?」
 あやめは脅えていた。でも、逃げるわけには行かない。ここで逃げてしまったら、いきなり伝説の探索が終わってしまうのだ。
 でも、不良の顔は恐かった。声も恐い。しかし退かない。
 赤い髪の不良は埒が明かないと思ったのか、隆司の方に目を向けた。
 隆司の眠たげな眼と、不良の不良特有の睨みを効かした眼が合う。
 隆司がいだいた感想はひとつだった。
 ああ、こいつは。こんな眼であやめのことを脅したのか、と。
 ただそれだけだった。そこにはなんの感情もなかった。
 
 そして。
 凄い音がした。
 
 あやめの目の前から、不良の顔が突然消えた。
 代わりに現れたのは振り抜かれた拳。あやめのよく知る、それは隆司の手。
 そしてあやめが目を下ろせば、そこには倒れ伏した赤い髪の不良の姿がある。
 場は静寂に包まれた。
 たむろしている不良達もまた、突然のことに呆気にとられている。
 その静寂を破ったのは、
「めんどくせぇ」
 という、隆司のつぶやきだった。
 それで呪縛が解けたのか、
「て、てめぇ!」
 タバコを投げ捨て、不良の一人が隆司に向かう。隆司はあやめを自分の後ろにすると、
「はあっ……」
 ため息一つ。そして、拳を振るった。
 飛んだ。不良が飛んだ。一メートルほど宙を舞い、地面に着地。そしてそのあと5メートルほど、校舎の壁にぶつかるまで転がった。
 眠たそうな目のまま、隆司は残った不良達を一瞥する。残りは5人。目を向けられたやつらは、凍り付いた。
 またしても静寂が占める。
 今度静寂を破ったのは、不良の声だった。
「ま、まさかこいつ……眠りの隆司!」
 その言葉に、不良達に震えが走る。
「な、なんだそいつはっ!?」
「聞いたことがある……眠そうな目、邪魔するヤツをことごとく『眠らせる』ことから、ついた二つ名が『眠りの隆司』っ!」
「な、なにぃーっ!?」
「なんだってーっ!」
「そ、そ、そいつ! あの木下先輩をボコにしたんだろっ!?」
「俺も聞いたことある……先輩強えだろ? でもあいつと闘って、何度も立ち上がって、そのたびに倒されたって!」
「そのときヤツは言ったらしいぜ……『めんどくせえから立ち上がるな、とっとと眠れ』って……!」
「ひでえ……血も涙もねえ……!」
 あやめはそんなやりとりに驚いていた。
 実は彼女はその「木下先輩」がボコられる所を見ていた。そのとき思ったのは、「男ってケンカばっかりして仕方ないわね!」という程度のものだったが、まさかこんな事になっていたとは。
 隆司はため息を吐く。自分のことを知られていた。めんどうくさいことになるかも知れない。
 そんなとき、隆司のとる選択肢はひとつだ。
「めんどうなことになるまえに、片づける」
 本当にめんどうくさそうに呟きながら、一歩踏み出す。
 それで十分だった。
「ひいいいいいーっ!」
 不良達は悲鳴を上げると、驚くべき速さで倒れた二人を担ぎ、立ち去っていった。
 その場には隆司とあやめ、二人だけが残った。ご丁寧にも煙草を吸っていた痕跡すら片づけられていた。
「ふむ」
 めんどうごとがまとめて片づいた。隆司は満足げに息を吐く。
 しかし、そこで気がついた。ぜんぶ終わったわけではない。ひとつ、残っている。
「あやめ」
 呼ぶと、あやめはびくんと震えた。
「しばらく背中を貸してやる。好きにしろ」
 その言葉を聞くが早いか、あやめはその背にしがみつく。
 隆司の背には、あやめの震えが伝わってきた。
 そう、彼女はさきほどまで脅えていた。そしてそうした感覚は、すぐには抜けないものなのだ。
「しかしお前、成長しないなあ」
 あやめは脅えて、でもプライドがあるから正面から甘えることができない。
 だから、背中を貸してやる。
 これは昔からよくやっていたことだった。小さな頃から、かわっていない。隆司はそう思ったのだ。
 だが、
「だまれ! 少しずつ大きくなっているっ!」
 隆司は一瞬言葉の意味が分からない。
 しかし、背にほのかに伝わるやわらかいふくらみに気づいた。どうやらあやめは胸のことを言っているらしい。
 苦笑してしまう。昔通りと言うばかりでもなかった。考えてみればこうして背中を貸すのは久しぶりのことだった。
「ああ、当たってるのか、胸が」
「あたってるのだ! だきついてるんだからしかたないだろうっ!?」
 めちゃくちゃな理屈だった。まったく、あやめの扱いはやっかいだ。
「めんどくせえ……」
 だから隆司は、そう呟き、そしてあやめはそんないつも通りの隆司に安堵を覚えるのだった。






 結局、校舎裏には何本か木はあったものの、桜の木はなかった。
 二人は次の場所を目指すことにした。
「次はどこだ?」
「体育館脇の木立だ! 行くぞ、次こそはっ!」
 あやめは気を取り直し、いつもの様子だった。またしても二人して手を繋ぎ、上機嫌な様子だった。
「それにしても、探すのめんどくせえな。春ならよかったのにな」
 隆司がぼやく。
 桜の木は、形に特徴があるし、樹皮も独特だ。近くであればすぐに区別が付く。だが、最もわかりやすいにはやはり華開く春だろう。
「仕方なかろう。この伝説を知ったのがつい最近だからな」
「それで今日、か。めんどくさいな」
「ふ! 案ずることはない! この如月 あやめが探すのだ、すぐに見つかる! 貴様は泥の大船にのったつもりで安心するがいい!」
 大船だろうと泥だったら沈むほかないだろうが、隆司はつっこまない。めんどうだからだ。
 そんなやりとりをしていると、いつの間にか体育館脇近くまで辿り着く。
「今度は大丈夫だろうな……?」
 先ほどのこともあり、おそるおそると体育館脇へと近づく。体育館脇は校舎から見えにくく、校舎裏同様に不良のたまり場になっていそうなイメージがあった。
 予想通りと言うべきか。そこには人がいた。
 ただし、一人だ。
 ぼうぼうと雑草が生い茂る体育館脇。一角に一本の木。その付近だけは雑草が生えておらず、小さな広場がある。
 そこに、一人の少女が佇んでいた。
 女であるあやめの目から見ても、なかなか綺麗な少女だった。
 ひとつにしばった髪型は地味ながら、艶やかな黒髪は美しい。伏せられた瞳は黒目がちで、控えめで清楚な印象だ。
 あやめ達に気づいたのか、少女は目を向け、
「あ……」
 呟く。その表情は一瞬ほのかな希望に染まり、しかしすぐに失望に彩られた。
 そんな少女に、あやめは見覚えがあった。
「あやつ確か、D組の柊だ。どれ、この私がじきじきに話を聞いてやろう」
 隆司の手を離し、あやめは少女――柊への方へと駆け寄る。隆司はそのあとをゆっくりついていく。待っていてもよかったが、あとで話を聞くのは面倒だから、という判断からだ。
「そこの柊! こんなところで何をしているのだ!」
 手に腰をあて胸を張り、傲岸不遜に問いかけるあやめ。
 しかしあやめは気づいていない。
 彼女にとっては自分の威厳と気品を知らしめるためのそのポーズ。しかし彼女は小柄だ。そんな彼女の偉ぶったポーズは、大抵の者は同じ印象を抱くだろう。
 すなわち、「可愛らしい」、と。
 それは柊にとっても同じだったようだ。彼女はほんのわずか微笑んだ。
「あなたは確か……」
「ふ! その通り! 如月 あやめとはこの私のことだ! この私に出会えた栄誉に打ち震えながら、さあ答えるがいい! お前は何をしているのだ?」
 こんなあやめの態度を見れば、大抵の者は怒るか、そうでなくても苦笑ぐらいはするだろう。
 しかし柊は、ゆるやかに、さびしげに。笑みの形に口を開く。
 そして、
「待っているんです……」
 囁くように、呟いた。
「待っている?」
「ええ。告白をしたんです。彼ったら照れてしまって……それで、しばらく返事を待って欲しいって。だから私、ここで待ってるんです……」
 そういって、長く長くため息を吐く。それはひたむきな恋する乙女の姿だった。
 あやめはと言えば、突然の恋愛話に胸を高鳴らせていた。
「じゃ、じゃあ! もしかしてこの木が『伝説の木』なのかっ!?」
「伝説の……木?」
「そうだ! この学校には、その下で告白したカップルはしあわせになれるという、伝説の桜の木があるはずなのだっ!」
「はあ……」
 柊は不思議そうに自分の近くに生える木を見上げる。
「でもこれブナの木ですよ」
「え!? ブナっ!?」
 確かによくよく見てみれば、そのシルエットは桜とは似ても似つかない。
「なんでブナの木がこんなところにっ!?」
「さあ……?」
 嘆くあやめに、どこかずれた感じで首を傾げる柊。
「やれやれ、空振りか。……めんどくせぇ」
 隆司もまた落胆する。
 そして、三人してため息を吐いた。
「邪魔をしてすまなかったな。だが、この私と話すことができたのだ。有意義な時間を過ごせたと思うがいい」
「そうですね。退屈をまぎらわせました」
 相変わらずな感じのあやめの物言いに、柊はやわらかく微笑み答える。それがあまりにも儚く見えて、あやめはなんだか腹が立ってきた。
「まったく! 貴様の想い人を悪くは言いたくないが、早く答を出すべきだな! いったい何分待たされているのだ、柊!」
「何分と言われましても……分であらわすのは難しいですねぇ……」
「なに? どういう意味だ?」
「いえ、長すぎて……」
「なに!? 何時間も待たされているというのか!?」
 柊は首を横に振る。
「では、まさか……何日も待たされているというのか? なんということだ!」
 あやめは空を振り仰いだ。自分だったらきっと、数分でもいやだろう。数時間なんて耐えられない。まして数日ともなれば……想像することも恐ろしい。なんてひどい話だと、あやめは自分のことのように腹を立てた。
 だが。
「いえ、何日もと言うか……五年です」
 その言葉に、あやめはそれまで考えていたことがみんな吹き飛んでしまった。
「は!?」
 理解できず、そんな間の抜けた声を出してしまう。しかし柊はそんなあやめの様子など気にならないと言うように、
「五年です」
 微笑んで、しかしどこか寂しげな空気を纏って。柊はそう言いきった。
「五年……って、高校入学前じゃないかっ!?」
 計算が合わない。五年前なら彼女は高校生じゃない。なら、高校の敷地内で待つのはおかしい。いやいや、それ以前に五年間も待ち続けるというのがそもそも異常だ。あやめはますます混乱する。
 しかし、
「ええ、五年です。毎日毎日、放課後になるとここに来て、待ち続けています」
 当然のことのように柊は言う。まるで躊躇いも戸惑いも、わずかな疑問もない様子だった。
「こ、こんなことを言うのは失礼だと思うのだが……それは、その……来るのか? それより、自分から聞きに行った方がいいのではないのか?」
「いいえ、待つんですっ!」
 先ほどまで物静かなだった柊が、いきなり叫ぶ。
 驚いてあとずさり、しかしそれは止められてしまう。あやめの両手が柊によって握られてしまったからだ。
「私、告白したんですよ。そうしたら彼ったらひどいんです! 『おまえなんか大ッ嫌いだ、寄るな、寄るなあっ!』なんて言うんですよ!? いくら照れてるにしても言葉は選ぶべきだと思いませんかっ!? 女の子はデリケートなんですよっ!」
「それは振られてしまったのではないだろうか……?」
 もっともなツッコミに、しかし柊はまるで動じない。
「ありえません! だって私、雄太くんのことをこんなに好きなんですもの! 雄太くんだって私のことを好きに決まっています! そう、ありえない……雄太くんは私のことが好き、好き、好き好き好き好き好き好き好き好き好き好き……」
 柊は俯き呟き続ける。あやめはだんだん恐ろしくなってきた。冬の寒さとは違う、もっと根本的で絶望的な寒さが彼女を襲う。
 離れようとするが、柊の力は意外に強く、振りほどけない。
「わ、わかった。わかったから離せ!」
「わかった……わかるはずありません! あなたには雄太くんのことがなにひとつわかっていません!」
「あ、当たり前だ! 私は雄太くんなんて知らないっ……!」
「知らないはずがありません! だって私が待ってるんですよ! わたしがここで待ってるんです! 私は雄太くんのことを知っています! わかりやすく言いますと! 私がここで待ってるんだから、ここに来るのが雄太くんなんです!」
「な、なにを言っているかわからないっ!」
 話が通じない。傲岸不遜に言葉を放ち、周囲の注目を集めまくる彼女にとって、それは初めての経験だ。未知の恐怖から逃れようと彼女はもがくが、手はちっとも離れてくれない。
 おそるおそる見れば、柊はあやめの方を見ていなかった。
 眼が泳いでいる。いや、なにかを追っている。あやめに見えない、彼女だけに見える何かを目で追いながら、話している――そのことに気づき、あやめの恐怖は臨界点を越えた。
「わかりませんか! なら説明してあげます! 私が待っている人が雄太くん! 私が待っているんだから、必ず来るんです! つまりここに来る人が雄太くんということです! わかりましたかっ!?」
「わ、わからない。もう離してくれ……」
「いいえ、わからないなら離しません。わかってくれるまで話します! 私が待ってるのが雄太くん! ここに来るのが雄太くん! だ、か、ら!」
 そこで柊は言葉を止める。
 何かに気づいたように息を呑む柊。あやめにはわけがわからない。
 しかし、気がついた。気がついてしまった。
 見ている。先ほどまで泳いでいた柊の視線が、今はしっかりとあやめのことを見つめているのだ。
 あやめの背筋が凍った。
 そして、柊は決定的な一言を放つ。
「したがって……あなたが雄太くんっ!」
「え……?」
 あやめの頭の中がまっしろになった。柊の言った言葉がわからない。
 わからないまま、しかし。まっしろになってしまった頭を、どす黒い恐怖が満たしていていく。
「ここに来たんだから雄太くん!」
「ちょっと待って……!」
「待ってたわよ雄太くーん!」
「うわああああっ!?」
 叫ぶと、柊は力一杯あやめを抱きしめる。ひっしに引き離そうとあやめは暴れるが、柊の力はまるで弱まらない。それどころか強くなっていく一方だった。
「お、お、落ち着け! 私は女だ! 雄太くんとやらは男なのだろう!?」
「嘘です! こんな胸のちいさい女の子なんていませんっ! あなたは雄太くんです! もお絶対!」
「ふざけんなーっ!」
 こんな状態でも胸の話題だけは禁句だった。
 あやめが切れた。そして、柊の頬を平手で思いっきり張った。
 ぱちーんと、乾いた音が響く。
 柊は呆然と、動きを止めた。
「正気に返ったか……?」
 だが。まだ柊はあやめは気づく。彼女を抱きしめる柊の手は、まだ力を失ってはいない……!
「男の子じゃ、ない」
 茫洋と、柊は呟く。
 あやめは怒りを抑えつつ、
「ああ。女の子だ」
 力強く言った。
 柊は、眼を泳がせている。先ほどと異なり「目に見えないなにか」を追っている様子はない。どうにかなるか――あやめがそんな淡い期待を抱きだした頃。
 柊の目の焦点が合い、あやめを見つめた。
「男の子じゃなくて、女の子……」
「ああ、そうだ。わかってくれたか?」
「ええ、わかりました」
「そうか、それはよかった……」
 訳が分からないことばかりだが、どうにかおさまったようだ。
 やれやれと、あやめは安堵した。
 しかし、おかしな事があった。
 なぜか柊は、あやめを抱きしめる手をゆるめていないのだ。まだ離してくれないのだ。

「じゃあ女の子でもいいです」

 なにか聞こえた。理解を超えたそれは、再びあやめの頭の中を真っ白にする。
「女の子の雄太くんも好きっ!」
「いやちょっと!?」
 ありえない。それはありえない。しかしありえている。なぜなら柊の目は、さきほどの狂的なものではく、恋する乙女のそれだった。それはそれでよりいっそうの狂気を感じさせ、あやめは震えた。
「雄太くふぅん」
 先ほどまでの静かな調子とはうって変わった甘い声。柊は膝を折り高さを合わせ、あやめの慎ましい胸に顔を埋め、頬ずりする。
 あやめは戦慄を覚える。
 それは、ただ変なことをされているというわけではなく、
「ふふ、気持ちいいんでしょ……?」
 熱で浮かされたような熱さと、とろけるような淫靡さを含んだ柊の声。あやめは震える。なぜなら、その指摘が間違いではなかったからだ。
「女の子同士なんだから、どこが気持ちいのかよくわかります……」
「ちょっと待って、いろいろおかしいっ……!」
「おかしくなるのはこれから……ほら、ここがいいでしょ!」
「んん……」
「ほら、ここも。ここも」
「や、そんなとこっ……らめぇっ……!」
「ふふ、可愛い声……もっと聞かせて雄太くん……!」
「や、やらぁ……りゅ、隆司ぃ、助けてーっ!!」
 あやめの必死の声に、ようやく隆司は我に返る。
 いかにめんどうくさくないかで行動を決める隆司は、常に決断が早い。その彼にしては珍しく、その判断すらできなかった。理解が追いつかなかったのだ。
 そもそも現在の目の前の光景も理解の範疇外だ。
 上気し喉を反らすあやめ。うごめくしろいしろい柊の指。触れ合う少女と少女。
 隆司はあわてて何かを振り払うように頭を振る。
 彼にもひとつだけわかった。これ以上ほっといたら大変なことになる。それはきっとすごくめんどうくさい。
 だが、どうすべきか。
「めんどくせえ!」
 とりあえず行動するのが彼の信条だ。
 だが、柊は女だ。殴るのは彼の主義に反する。
 だから、二人を引き離した。力で、強引に。
「いたたたたーっ!」
 あやめは悲鳴を上げたが仕方ない。
「雄太くーん!」
 悲痛な柊の声が隆司の耳を打つ。
 なんだか隆司は自分が悪いことをしているような気になってきた。何が正しくて何が間違っているのか、彼にもよくわからなくなってきた。
「雄太くん雄太くん雄太くん……」
 柊は壊れたように繰り返す。それは永遠に続きそうなほどひたむきなものに思えたが、
「雄太くん?」
 唐突に、止まった。
 隆司を見つめ、止まった。
 隆司は総毛立った。やばい。すごくやばい。しかしどうしていいかわからない。さっきの不良のように殴るわけには行かない。そもそも殴っても解決しないような気がした。柊はきっと、どんなに殴っても止まらない……そんな根拠のない確信があった。
 がっしりと、柊は今度は隆司の手を取る。凄い力だった。本格的に掴まれたら、隆司でもふりほどけないのではないか……それはそんなことを予感させる、狂的な力強さだった。
 だが、隆司は動けない。どうしていいかわからない。と言うか、どうしようもない気がした。
「雄太くんに会ったぞっ!」
 その声が響いたのはそんなときだった。ぎょろり、と柊が声の方を向く。
 視線の先、声の元。そこにいたのはあやめだった。
「どこっ!?」
「い、一丁目の公園だ! 柊、貴様を待っていると言っていた! 私達はその伝言を頼まれたのだ!」
「一丁目の公園……」
「そうだ! 一丁目の公園だ!」
 一瞬だった。
 柊は駆けだした。
 隆司とあやめはその勢いにはじき飛ばされた。
 そして、体育館脇には二人だけが取り残された。
「隆司、行こう!」
 あやめに促され、隆司は立ち上がる。
 そしてふたりして恐怖に突き動かされて走り出す。
 校舎に入り、階段の裏側に入り込む。奥まったそこは、廊下からは見えない。隠れるにはいい場所だった。
「あやめ、すまない。しかしお前にしてはずいぶんと機転を効かせたものだな」
「ああああ当たり前だ。こここの私を誰だと思っている! 如月 あやめだぞ! 命がけになればあのくらいの嘘はつける! 一丁目は遠いし、たくさん公園があったはずだ! 当分戻っては来ないはず! 体育館脇に近づかなければ、大丈夫なのだっ!」
「でかした!」
 そして、二人して見つめ合う。
 あやめの瞳は潤んでいた。
 その瞳は潤んでいた。その潤みは見る間に増し、涙となってこぼれた。
 そして、隆司の胸に飛び込んだ。
「恐かったーっ!」
 ワンワン泣き出した。今度は背中ではない。もうわずかなプライドすら保てなかった。
「俺も恐かったー!」
 隆司も同じだった。
 だから二人は恐怖が過ぎ去るまで、抱き合っていた。





「それで、ウワサの最後の場所はプールの裏だ」
 ようやく落ち着き、二人は最後の候補地へとやってきた。
「裏とか脇とか、変な場所ばっかりだな」
 文句を言いつつも、隆司はしっかりとついて来ている。
 もう隆司も面倒くさいと行っていられなかった。なんだかめんどうくさい以前に、最後までつき合わないと気が済まなくなっていたのだ。
 だが、
「そういう場所じゃないな……」
 プールの裏の敷地は、ゴミの集積場になっていた。積み上げられた数々のゴミ袋が、壁で仕切られ燃えるものと燃えないものにわけられている。
 隆司のばやいた通り、伝説の場所とはほど遠かった。
「空振り、か……」
 あやめはくやしげにに呟く。
 だが、隆司はそれはそれで良かったと思った。
 ここに来るまでそれなりに苦労はした。ないことは残念と言えば残念だったが、でもそれでめんどうなことが一つ減ったのだ。それは彼にとっていいことだった。
 そう安堵している、隆司はあやめが自分のことを見つめていることに気がついた。
 真剣で、ひたむきな目だった。
「あやめ……?」
 問いかける。あやめはじっと隆司を見つめたまま、意を決したように口を開こうとし、
「おやまあ、こんなところで何をしとるのかね」
 呼びかけられ、中断された。
 見れば、そこにはゴミ箱を抱えた用務員のおじさんがいた。
「あ、どうも」
「うむ、ご苦労であるぞ……」
 挨拶を返す。初老のその用務員は、二人ともよく見かけて知っている顔だった。
「もう掃除の時間はとっくに過ぎたはずじゃろ? こんな場所になんの用じゃ?」
 気さくに話しかけられ、あやめは表情をゆるめる。そして、あきらめをにじませ、
「なに、ちょっと捜し物なのだ。伝説の木を、な」
 だが、それはもう終わってしまったのだ。あやめは自嘲の笑みを浮かべる。だが、返ってきた答えは意外な者だった。
「ほうほう、よく知っとるのぉ。告白すればカップルが幸せになるっちゅう、あの伝説の木のことか?」
「な、なに、知っているのかっ!?」
 あやめは用務員の方へと詰め寄る。
「教えて欲しい! 一体どこにあるのだっ!?」
「そこじゃよ」
 用務員の指さした方を見るが、そこにはゴミ袋の山しかない。
「ここ……?」
「そうじゃ。もう10年以上も前、その木はカミナリが落ちて、焼けてしまってな。校舎も改築されて、空いていたここは見てのとおりこんな使われ方をしておる。いや、それにしても懐かしい。そんな話がまだ伝わっておったんじゃな……」
「そうか……」
 あやめは失望のため息をもらす。わずかな希望が見えたかと思った。しかしやはり、終わってしまったことなのだ。
「本当に、ただの伝説になってしまったんだな……。もう、伝説しかないんだな……いや、そんな伝説、本当にあったかも怪しいものだ……」
「あやめ……?」
 空虚に呟くあやめを、隆司は訝しげに見る。彼は、この探索はいつものあやめの気まぐれからだと思っていた。しかし、それにしては彼女の様子はあまりにも真剣すぎた。
 とまどう。隆司の胸の中が、ざわめく。その感覚はとても不快で、うっとおしくて、めんどうなものだった。
 だが彼にはどうすることもできない。
「伝説、というだけじゃないぞ」
「え?」
 救いの手は、用務員のおじさんからもたらされた。
「伝説の木はな……本当にあったことなんじゃ。なにしろそこで最初に告白したカップルは、本当にしあわせになったからのう」
「もしかして、そのカップルを知っているのか?」
 隆司の問いかけに、用務員のおじさんは満面の笑みを浮かべる。
「ああ。なにしろわしのことじゃからな」
「へ?」
 用務員のおじさんの意外な答えに、珍しいことに隆司の眠たげな目が大きく見開かれた。
「ばあさんとはうまくやっとるよ。ああ、しあわせさ。しあわせだとも……」
 そう言って微笑む用務員のおじさんは、たしかにしあわせそうだった。
「本当にあったことだったのか……?」
「そうさの……せっかくだからタネもばらすとのぉ……告白に失敗した者は生きて帰れないと言う話もあったじゃろ?」
「え、ええ?」
「あれはの……告白したとき、わしは興奮しすぎて鼻血を吹いたしまったのじゃ。それで残った血痕を見て、いろいろ尾ひれが付いたウワサがひろまったようじゃのぉ」
「そんなことかよ……」
 隆司は吐き捨てるように言った。そんなつまらないことで今日は一日振り回され、そして今、あやめは落ち込んでいるのだ。
「そうさの。そんなことじゃ。学校に伝わる伝説なんてもの、元を正せば大抵はそんなつまらないことばかりじゃ。でものぉ」
 言葉を切り、そこで用務員のおじさんは柔和な笑みの中に一瞬だけ鋭い真剣な目を見せた。
「そこにある意志は本物じゃ。いつだって、本気で一歩を進める若者が、伝説を作るんじゃ。だからおまえさんがたも……頑張れよ!」

 そう言って、用務員のおじさんは快活に笑った。





 その後、二人はカバンを撮りに行くため教室に戻った。
 そして今は、その帰り道。
 校門へと続く並木道。道に沿って桜の木が植えられている。
 隆司はいらついていた。
 ひとつは、この並木道の桜の木だ。あんなにめんどうくさかったというのに、目的の木ではないとは言えここにはこんなに桜の木があるのだ。
 そして、彼をいらつかせることがもう一つ。
 あやめだ。
 彼女はあれ以来、一言も喋らない。いつもうるさいぐらいに喋る彼女にしてはとても珍しいことだった。
 いつもだったら、あやめが少々落ち込んだぐらいで隆司は何もしない。めんどうくさいからだ。どうせすぐに明るさをとりもどすのだから、自分がなにかするのはムダに思えた。
 しかし、今日は違うようだった。いつもとは違う落ち込みようだ。
 それが、隆司をいらつきさせる。そのいらつきは、ついに彼の「めんどうくささ」を越えた。
「なあ、あやめ。どうして伝説の木を見つけたかったんだ?」
 ついに、隆司は声をかける。しかし、
「どうだっていいじゃないか……」
 顔を伏せたまま、あやめはそんなことを呟いただけだ。
 それっきり、何も言おうとしない。
 隆司はさらにいらついた。自分がめんどうくさいのを押して聞いてやったというのに、こいつのこの物言いはなんなのか。
「どうでもいいことないだろう? お前、すげえ落ち込んでるじゃないか」
「いいんだ、そんなこともう」
「話せよ」
「うるさい」
「いいから話せよ」
「うるさい!」
 ようやくあやめが顔を上げた。振り乱れる髪に紛れて飛ぶのは、雫。
 あやめは泣いていた。
 隆司はぎょっとなる。
 すごく久しぶりに見る、「隆司がからかったとき以外の」あやめの泣き顔だった。
「あやめ……」
「絶対ぜったい見つけたかったんだ! でもなかった! もうなくなってた! だからどうでもいい!」
 言うだけ言って、あやめはまた顔を伏せてしまう。
 隆司はいらついた。
 さっきの焼却炉の時と同じ。あやめが落ち込んでいるというのに、何もできない自分へのいらつき。
(違う……そうじゃねえだろ……!)
 そうだ。隆司はいつだって、自分がからかう以外であやめが泣かないよう、やってきたのだ。どんなにめんどくさくても。
 だから、いまだってなにもできないハズがない。
「めんどくせえこと言ってるなよっ! ないものはつくりゃいいだろっ!」

 叫び、桜の木の一本を指さした。
「例えばここ! ここで誰かが告白でもすりゃ、伝説になるんだろっ!? 用務員のじいさんも言ってたじゃないか、伝説なんてそんなもんだ! そんなもんのために、落ち込んでんじゃねえっ!」
 あやめはもう顔を伏せていない。驚いて、隆司を見つめていた。隆司もまた自分のしたことに驚いていた。こんな風に叫んだのはいつ以来だろう? 彼は思い出すことができなかった。
 あやめはそんな隆司の様子に、ふっ、と微笑んだ。
 笑った。しかし、隆司は不安になる。その笑みが、寂しげなものだったからだ。
「そんなこと、か。……いいだろう。ではこの如月 あやめが、新しい伝説を作ってやろう」
 言って、カバンを地面に置く。
 舞うように軽やかな動きで、隆司の指し示した桜の木の元にたどりつく。
 寂しげな笑み。芽のひとつもない黒々とした桜の木。のしかかるような、鉛色の冬空。
 そんななか、あやめは口を開く。
「隆司。私は貴様が哀れだと思ったんだ」
「なんだと?」
 いきなりとんでもないことを言われ、隆司は鼻白む。
「だってそうだろう? 貴様は高校二年、まさに遊び盛りというこの時期に彼女もいなくて一人っきり。まったくもって哀れこの上ない。しかもクリスマスも近いこの季節、貴様は相も変わらずひとりきり。情けない限りだな」
「お前なあ……」
 隆司はそんなこと、今まで気にしたことない。だって彼には、いつもあやめがいたのだ。
「そこでこの高貴にして聡明なこの私は考えた。そんな寂しい貴様のために、一肌脱いでやろうとな!」
 そして、あやめは笑みを浮かべる。それは痛々しいまでの、満面の笑み。
「喜べ! 貴様をこの私の恋人としてやろう!」
 明るい声だった。明るすぎて、隆司は胸が痛くなる。
「だが貴様如きにそんな栄誉を与えるのに、ただの告白では物足りない。そこで、伝説の木だ! 伝説の場ともなれば申し分ない。そこでならこの私が告白するのもいいかと思ったのだ……」
 笑顔が崩れた。泣き顔になった。涙が、止めどなくこぼれた。
 こんなはずじゃなかったのだ。
 隆司と一緒に伝説の木を見つけ、そこで告白するつもりだった。
 彼女らしく、優雅に、華麗に。でもひたむきに、伝説の木の下で告白するはずだったのだ。
 
 二人は幼なじみだ。
 長く一緒にいた。
 だから、好きになった。
 長く一緒にいた。
 だから、続いてきた関係を壊すことが恐かった。
 きっかけが欲しかった。後押しが欲しかった。なにかが、必要だったのだ。

 だから、伝説の木を求めた。

 でも、もうそんなものはなくなっていた。
「こんなはずじゃ、なかった……のに……」
 涙が止められない。
 木は見つからず、問いつめられて気持ちを告げた。
 最悪だった。おしまいだ。明日からどんな顔をして会えばいいのだろう。こんなことなら伝説の木を探したり何かしなければ良かったのだ。
 でも、もう。取り返しがつかない。
 絶望し泣きじゃくるあやめを前に、隆司は、

「めんどくせえ」

 いつものように、そう言った。
「隆司……?」
 涙を拭いながら、あやめは顔を上げた。
 不思議だった。
 告白に失敗した。だから、隆司との日常全てがなくなってしまったと思った。だから、そんないつもと変わらない隆司の声を聞くことなんてないと思っていたのだ。
 しかし、あやめは隆司の顔を見ることができなかった。
 なぜなら、抱きしめられたから。彼女の目は、隆司の胸しか見ることができなかった
「な、なにをするんだ隆司……?」
「なにをするだと? それはお前の方だ。恋人にしてやる、だ? なにを言ってるんだお前は」
「や、やかましい。貴様のような下賤の者に、所詮高貴な私の想いなど伝わるはずが……」
「やかましいだと? それはお前の方だ。俺達は……ずっと一緒にいただろう」
 ぎゅっと、強く抱きしめる。その力が強くて、近づくことがあたたかくて、あやめは切なくなる。胸が満たされる。自分が想っていたことを、隆司も同じように想っていてくれていた。それだけで、しあわせだった。
「お前みたいにガキっぽくっていつもふんぞり返ってるヤツを、俺以外の誰がついてやるっていうだよ?」
「そ、そんなことはないぞ……」
 ふてくされて呟くあやめに、隆司は苦笑する。心が暖かくなる。
「俺みたいな面倒くさがりなヤツを、お前以外の誰がひっぱってってくれるんだよ」
「え……?」
 抱きしめる。あやめに、見えないように。きっとすごく恥ずかしい顔をしている自分の顔を見られないように、隆司はあやめをぎゅっと抱きしめる。
「めんどくせえ。心底めんどうくせえ。こんなつまらないことを言わなくちゃいけないのかよ。でも、仕方ねえよな」
「りゅ、隆司……?」
 隆司は決意する。言葉は、ちゃんと出てくれた。
「俺も、お前のことが好きだ」
 あやめが震えた。
 なにも言わない。ただ、沈黙が降りる。とくんとくんと、隆司の鼓動とあやめの鼓動だけがその場の音だった。
 そして、
「りゅ、隆司っ!?」
 見えないように抱きしめていたのに、あやめは強引に顔を跳ね上げ隆司を見上げる。目と目が合う。たまらない。
 恥ずかしくなって、隆司は顔を背ける。彼女とのつきあいは長い。何を求めるか、わかってしまった。
「二度は言わないからな」
「いや、もう一度! この私が頼んでいるのだ! 貴様は四の五の言わずになんどでも繰り返すべきだ! 愛の告白をっ!」
 あやめの胸は満たされていた。しあわせと暖かさに満たされていた。
 だが彼女は欲張りだ。この時間を、もっと幸せなものにしたかった。
 隆司は本格的にめんどうくさくなってきた。と言うか、恥ずかしい。そもそもそういうのは無闇に口に出すべきではないのだ。それをあやめに説明するのもめんどうくさい。
 だから、隆司は、思いつく限りもっともめんどうくさくなく、でもいちばん恥ずかしい方法をとった。
 唇で、唇をふさいだ。
 それであやめを黙らせることができる。めんどうくさくない合理的な手段だ。
 でも、すごくはずかしい。
 初めて触れる柔らかな感触、そしてやわらかさ。味はしょっぱい。さっきまであやめは泣いていたのだ。でも、いやではなかった。今はきっと、笑っているはずだから。
 あやめからは、動揺が伝わる。しかし、それも一時。すぐにあやめは隆司に身を委ねる。
 唇から、しあわせだけが伝わってくる。
 そんななか、隆司は
(ほんと、めんどくさいな女ってのは)
 そんなことを考える。でも、悪くない。悪くなかった。
 
 二人は、そうして、満足するまで触れ合い続けた。
 
 この日のことが伝説になるのは、まだ少し先。
 実は何人かの生徒にこの光景が目撃され、口コミで広まり、尾ひれが付いて伝説まで昇華されるのは、まだ少し先。

 それはクリスマスを間近に控えた、そんな冬の日のできごとだった。

Fin

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